4月16日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

大志を抱く日(ボーイズビーアンビシャスデー)。
1877(明治10)年4月16日、札幌農学校(現在の北海道大学の前身)に赴任していたウィリアム・スミス・クラークが、「Boys, be ambitious(青年よ大志を抱け)」の言葉を残してアメリカへ帰国した。ウィリアム・スミス・クラークは、アメリカの教育者である。化学、植物学、動物学の教師であり、農学教育のリーダーでもあった。札幌農学校では、専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。日本では、「クラーク博士」として知られる。日本人から見ると、いわゆる「お雇い外国人」(幕末から明治時代にかけて、「殖産興業」等を目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い)の1人である。札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北海道北広島市島松に所在した駅逓所[幕末から昭和初期の北海道において、旅人の宿泊や、運送、郵便の役割を担った施設])で、札幌農学校初代教頭のウィリアム・スミス・クラークが発したとされる言葉が、よく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、ウィリアム・スミス・クラークの離日後、しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものと考えられた時代があった。その後、実際にウィリアム・スミス・クラークは、概ね同様の言葉を残していたことが、札幌農学校1期生らの証言によって明らかになった。ウィリアム・スミス・クラークは、学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはウィリアム・スミス・クラークである、という説もある。この説は確認されていないが、1881(明治14)年の札幌農学校の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていた、という話もある。北海道でパン食を推進したのは、ウィリアム・スミス・クラークの前任者とされる開拓使(北方開拓のために置かれた官庁)顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、ウィリアム・スミス・クラーク以前の時代に遡る可能性もある。なお、アメリカの軍人・政治家で、お雇い外国人の1人であるホーレス・ケプロンは、日本では積極的に北海道の視察を行ない、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのも、ホーレス・ケプロンである。開拓使東京事務所で、ホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これは、「ライスカレー」という単語が使われた最初期の例である。ホーレス・ケプロンの仕事は多岐に亘り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業等、開拓のほぼ全領域に亘っている。ホーレス・ケプロンは、北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励し、北海道ではパン食を推進すべきと主張した。ホーレス・ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後の大手ビールメーカー、サッポロビール)が設立される遠因になった。また、単に魚を獲るだけでなく、塩漬け等に加工すれば重要な輸出品になると進言し、このホーレス・ケプロンの進言に従って、1877(明治10)年10月10日(ホーレス・ケプロンの離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。ウィリアム・スミス・クラークは、マサチューセッツ農科大学(現在のアメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州の州立大学、マサチューセッツ大学アマースト校の前身)の学長を務めていた際、学生の中に、マサチューセッツ農科大学初の日本人留学生がいた。それが新島襄(同志社大学の創始者)で、任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876(明治9)年7月、札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日する、という形をとった。ウィリアム・スミス・クラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、ウィリアム・スミス・クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが、開拓使によって許可され、殆ど実質的には、ウィリアム・スミス・クラークが校内の全てを取仕切っていた。ウィリアム・スミス・クラークは、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入、自ら模範となり、学生達を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生抜きを後継者に据え、規律、及び諸活動に、厳格かつ高度な標準を作成し、学生の自律的学習を促した。約9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877(明治10)年4月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗する。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰返し、果てに逃亡する。やがて会社は破産。その後、破産を巡る裁判に悩まされた。晩年は、心臓病で寝たり起きたりの生活となり、1886(明治19)年3月9日、失意の内に59歳でこの世を去った。ウィリアム・スミス・クラークは、帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には、「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしい時だった」と言残した、と伝えられる。
女子マラソンの日。
1978(昭和53)年4月16日、日本初の女子フルマラソンの大会、「第1回女子タートルマラソン全国大会」が、東京都東大和市にある村山貯水池(通称は多摩湖)の畔で開かれた。参加者は49名であったが、初めての女子マラソンということで、沿道には10万を超える大観衆が集まった。日本初の女子フルマラソン大会の開催地として歴史を後世に伝えるため、2013(平成25)年度に東大和市は、記念碑「水の精」像を建立し、記念事業を実施した。マラソンは、陸上競技の長距離走の1つで、42.195kmの公道コースを走り、順位や時間を競う種目である。古代ギリシャの故事に由来するもので、近代オリンピックの創設に伴ない、陸上の新種目とされたことから始まった。1896(明治29)年に開催されたアテネオリンピック(第1回オリンピック競技大会)の当時、陸上競技は男子のみで行なわれており、マラソンも例外ではなかった。但し、当日隠れて同じコースを走ったメルポメネという女性がおり、史上初の女子マラソンランナーとされる。その後、女子の陸上競技への参加が認められるようになっても、「女子がマラソンを走ることは生理的に困難」という見解が広く信じられ、オリンピックを始めとするマラソン大会も、男子のみで開催されていた。これに対して、1966(昭和41)年のボストンマラソン(アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ボストンで開催される、「選ばれしもののマラソン」と称される程の世界最高峰のマラソン大会の1つで、近代オリンピックに次いで歴史の古いスポーツ大会の1つでもある)で主催者に隠れて参加する女子が出現、その後も年を追って、非公式の女子の参加者が増えたことから、1972(昭和47)年には女子の参加が認められた。そして、1979(昭和54)年に、国際陸上競技連盟(IAAF)が公認する史上初の女性限定マラソン大会として、東京国際女子マラソンが開催された。オリンピックで女子のマラソンが正式に採用されたのは、1984(昭和59)年のロサンゼルスオリンピック(第23回オリンピック競技大会)からである。