4月13日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2土曜日 旧暦  3月 5日、先勝(丁未)、月齢  4.4  
グレゴリオ暦で年始から104日目、年末まであと262日。
誕生花 イチゴ・クマガイソウ・ペルシャギク。

決闘の日。
1612(慶長17)年4月13日(旧暦)、剣術家・兵法家の宮本武蔵と、剣客で豊前国小倉藩細川家指南役の佐々木小次郎との決闘が、豊前国小倉藩の藩領で、関門海峡内に位置する無人島、船島で行なわれたことによる。「巌流」(「岩流」とも)とは、敗れて死んだ佐々木小次郎の流派のことで、船島はその後、巌流島と呼ばれるようになった。船島は、本州(山口県下関市彦島)から約0.4kmの関門海峡内に位置する小島で、島全体が平らな地形であり、標高は最高地点でも海抜10mに満たない。島の東海岸に設けられた遊歩道等からは、関門海峡を行交う大型船を間近に見ることができる。また、島の相当部分は公園として整備され、人工海浜や多目的広場が設けられている。かつては、すぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉も、朝鮮出兵(1592[文禄元]年から翌1593[文禄2]に休戦した文禄の役と、1597[慶長2]年の講和交渉決裂によって再開され、翌1598[慶長3]年の豊臣秀吉の死をもって、日本軍の撤退で終結した慶長の役とを合わせた、朝鮮半島を舞台に戦われた戦役の総称、文禄・慶長の役)の拠点とする為に築かれた名護屋城(肥前国松浦郡名護屋[現在の佐賀県唐津市、旧佐賀県東松浦郡鎮西町]にあった城)から帰坂途中に、ここで乗船が座礁転覆した際、毛利水軍によって助けられたと言われている。この時、船と運命を共にした船長の明石与次兵衛の名を取り、江戸時代には「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれていた。岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化の障害となるため爆破されたが、この部分も合わせて、日本最大の機械メーカーであり、三菱東京UFJ銀行、三菱商事と並ぶ三菱グループ(かつての三菱財閥[第二次世界大戦以前の日本経済において、三井に次ぐ勢力を有した財閥で、財閥とは、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態のことである]の流れを汲む企業を中心とする企業グループ)御三家の一角でもある三菱重工業によって埋立てられ、現在の巌流島の一部となった。この埋立てによって、元々は17,000平方m程度であった島の面積は、約6倍の約100,000平方mに広がった。また、明治中期には、コレラ(急性の激しい下痢を伴なう腸管感染症)患者の医療施設が立地していた。第二次世界大戦の前から、周辺が日本軍の要塞地帯となり、撮影はもちろん、小型カメラすら向けることは禁止された。第二次世界大戦後、島に移住者があり、一時は30世帯に達したが、後に再び減少して、1973(昭和48)年には無人島に戻った。近年では、狸が生息しているという。二刀を用いる二天一流兵法の開祖で、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している宮本武蔵の本姓は藤原、名字は宮本、又は新免、通称は武蔵、諱(生前の実名)は玄信(はるのぶ)である。号(本名とは別に使用する名称)は二天、又は、二天道楽。代表的な著書である、剣術の奥義を纏めたと言われる兵法書『五輪書』の中では、新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている。佐々木小次郎は初め、安芸国(現在の広島県西部)の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「巌流」(「岩流」とも)と呼ばれる流派を創始。豊前国小倉藩細川家の剣術師範となる。決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で、佐々木小次郎が60歳近くであったと言われている。「国民文学作家」と称される吉川英治の新聞連載長編小説『宮本武蔵』(新聞小説史上かつてない程の人気を得た、大衆小説の代表作)では、「武蔵が決闘にわざと遅れた」となっているが、これは、肥後国細川藩(細川家は、豊前国小倉藩から転封された)の筆頭家老、松井家の二天一流(流祖の宮本武蔵が、晩年に肥後国熊本で完成させた兵法)兵法師範であった豊田正脩が著した宮本武蔵の伝記『武公伝』(1755[宝暦]5年作)に材を採った、吉川英治の創作である。宮本武蔵の養子で、決闘に立会った目撃者である宮本伊織が、宮本武蔵の死後9年目に建立した小倉の顕彰碑「小倉碑文」によると、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刀の一撃」でこれを倒したとある。この時の宮本武蔵の必殺の一撃は、「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。また、碑文には、「両雄同時に相会し」とあり、宮本武蔵は遅刻していない。関係者が全て死んだ後に書かれた、豊田正脩の子である豊田景英(同じく松井家の二天一流兵法師範)が著した宮本武蔵の伝記『武公伝』(1776[安永]5年作、『武公伝』を読み易くするために添削したもの)『二天記』では、「岩流」は「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘で刃長3尺余(約1m)の野太刀(日本刀の一種で、長大な打刀)「備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)」、通称「物干し竿」を使用、宮本武蔵は櫂を削った2尺5寸(約75.8cm)と1尺8寸(約54.5cm)の木刀2本を使い、これを破ったとある。俗に、「巌流島の決闘」と呼ばれるこの勝負は、江戸時代より現代に至るまで、芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品等、様々な大衆文芸作品の題材となっている。宮本武蔵は、60数試合闘って無敗の戦績を残す等の剣豪として知られるが、国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』を始め、『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』等、宮本武蔵作の水墨画や鞍、木刀等の工芸品が、各地の美術館に収蔵されている。現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、水墨画については、二天の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが、明確な結論は出されていない。  
新型インフルエンザ対策の日。 
2009(平成21)年4月13日、北アメリカ南部に位置するメキシコで、最初の新型インフルエンザの患者が確認され、後に死亡したことから、東京都練馬区豊玉北に所在し、個室での透析等、インフルエンザ対策を積極的に行なっている病院、「練馬桜台クリニック」の永野正史理事長が制定。世界的に流行し、多くの感染者や患者を発生させるパンデミック(ある感染症、特に伝染病が、顕著な感染や、死亡被害が著しい事態を想定した、世界的な感染の流行を表わす用語)への備えを怠らないように、との思いが込められている。日本では、2009(平成21)年5月9日に成田空港での検疫で、北アメリカ北部に位置するカナダの交流事業から帰国した高校生ら3名の感染が初めて確認された。5月16日には、国内で初めての感染が確認され、その後、兵庫県や大阪府の高校生を中心に急速に感染が拡大した。2010(平成22)年11月3日現在、日本では203名が新型インフルエンザにより死亡としたと発表されている。これらの死者は、ぜんそくや糖尿病等の基礎疾患(持病)を持っている者が多かった。しかし、死因が新型インフルエンザと確定し切れない例等も含まれている。この新型インフルエンザは、誰もが感染する可能性があり、予期せぬ重症化や死亡も、小児を中心に多数報告されている。また、ウイルスの変異による強毒化等の可能性もあるため、警戒が必要である。