4月12日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

東京大学創立記念日(続き)。
本郷キャンパスには歴史のある建物が多く、東京都の登録有形文化財第1号である安田講堂を始め、正門(横にある門衛所も含む)、法文1号館、法文2号館、法学部3号館、工学部列品館、工学部1号館が登録有形文化財に登録されている。これらの建物の内、正門以外は、建築学者・建築家で、元東京帝国大学総長でもある内田祥三の設計による建築で、これらは共通する特徴を持ったゴシック様式(西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語)の建物であるため、設計者の名前を取って内田ゴシックと呼ばれている。内田ゴシックは他にも、医学部2号館(本館)等、本郷キャンパス内に数多く存在する。赤門は、本郷キャンパス南西部にあり、本郷通りに面している。本郷キャンパスの正門とよく間違われるが、正門ではない。旧加賀国/能登国/越中国加賀藩藩主、前田家の上屋敷の御守殿門であり、1827(文政10)年に第12代藩主前田斉泰が江戸幕府第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られた。建築様式としては薬医門(鏡柱から控え柱までを取りむ屋根を持つもので、本来は公家や武家屋敷の正門等に用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある)であり、切妻造(屋根形状の1つで、屋根の最頂部の棟から地上に向かって2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根)となっている。左右に唐破風造(切妻[屋根の最頂部の棟から地上に向かい、2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根]のむくり屋根[屋根の曲面形状が上方に凸となったもの]の先に曲線を連ねた形状の破風板[屋根の内部や屋根瓦の下に吹込む風を防止するための板]が付けられる)の番所を置いている。赤門は、国の重要文化財、旧国宝であり、転じて東京大学の俗称となっている。1979(昭和54)年完成の本部棟の設計は、日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された1人である丹下健三。その名の通り、大学本部として使用されている。地上12階建ての高層建造物であり、完成当時は東京大学構内では珍しい存在であった。安田講堂は、正式には東京大学大講堂というが、東京大学の学内では「安田講堂」が用いられる。1925(大正14)年に竣工しており、収容人数は1,144席。金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる四大財閥の1つ、安田財閥の創始者安田善次郎の、匿名を条件での寄付により建設されたが、安田善次郎の死後に寄付を行なってたことが知られるようになったことで安田善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。1968(昭和43)年の東大紛争(主に学部生・大学院生と当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化等の課題を巡り争われた大学紛争)では、全学共闘会議(「実力闘争」を前面に出した、学生による大学内の連合体)によって占拠され、最終的には機動隊により強制排除された。その後、長期に亘り大講堂は荒廃状態のまま閉鎖されていたが(事務室は順次「学生部」等として使われる等していた)、富士銀行(現在のみずほ銀行の直接の前身)を始めとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり、1988(昭和63)年から1994(平成6)年に改修工事が行なわれ、再度供用されている。1990(平成2)年の大改修を機に、東京大学の届出学生団体等による演奏会等にも使用できるようになった。1991(平成3)年より卒業式・学位記授与式が再び安田講堂で行なわれるようになったが、収容人員の関係から対象者全員を一度に収容することができず、現在は文系学部・理系学部で時間帯を分けて開催している。安田講堂は、正門を入って銀杏並木を軸線にした正面に位置し、東京大学のシンボルとなっている。東京大学の課外活動を行なう団体・組織は、大きく分けて、運動会とサークルに分かれる。この内、運動会は一般に、他大学で称されるところの体育会に当たる。学部生は原則として、全員運動会に入会するので、学部生であれば誰でも、1977(昭和52)年の東京大学創立100周年記念事業の一環として、1988(昭和63)年に建設されたスポーツ施設で、プール、ジムナジアム(バスケットボール、バレーボール、バドミントン、卓球が利用可能な体育施設)、トレーニングルーム、クライミングウォール等の施設がある、御殿下記念館等の運動施設の利用、運動会主催の各種大会・講習会への参加、保健体育寮「スポーティア」等での宿泊等が可能である。大会等に出場するには、運動会に属する部に所属する必要がある。東京大学運動会硬式野球部は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チームである。東京を所在地とした6校の大学の硬式野球部で構成された、現存している中では最も長い歴史がある大学野球リーグ、東京六大学野球連盟での優勝はなく、3位以上も、1946(昭和21)年春季の2位が1回あるのみである。開幕試合は、前季優勝校と最下位の東京大学との対戦が殆ど定番化し、連敗・連続最下位等、東京六大学リーグワースト記録の多くを東京大学が占めている。それでも、1974(昭和49)年秋季法政大学1回戦では、超高校級の豪腕投手として驚異的な活躍を果たし、怪物のニックネームを欲しいままにした、法政大学の絶対的なエース投手、江川卓に初黒星を付け、TV中継(テレビ神奈川)が予定外の放送延長を行ない、1981(昭和56)年春季には、早稲田大学を相手に史上初の連続完封を果たし、慶應義塾大学からも勝ち点を挙げて優勝争いに加わり、東京放送(TBS)が急遽、対立教大学4回戦をTV中継する等、話題を集めた。また、2010(平成22)年10月2日には、開幕戦初登板以来白星を献上し続けて来た、早稲田大学の斎藤佑樹に、初めて黒星を付けて話題を呼んでいる。因みに、2010(平成22)年に早稲田大学4年生となっていた斎藤佑樹は、主将としてリーグ戦優勝、大学日本一という、これ以上ない有終の美を飾っている。東京大学は、旧帝国大学が持回りで開催している、全国七大学総合体育大会に参加している。全国七大学総合体育大会とは、かつて帝国大学であった9大学の内、日本国内(内地)で新制大学に受継がれた国立大学7校が合同で開催している体育大会である。「七帝戦」、又は「七大戦」と省略して呼ばれるが、実行委員会は後者の呼称を推奨している。7校の内訳は、北海道大学(旧北海道帝国大学)、東北大学(旧東北帝国大学)、東京大学(旧東京帝国大学)、名古屋大学(旧名古屋帝国大学)、京都大学(旧京都帝国大学)、大阪大学(旧大阪帝国大学)、九州大学(旧九州帝国大学)であり、これらの大学に所属する運動部が、各種目毎に順位を決め、大学単位で総合順位を競い合う。1962(昭和37)年に「国立七大学総合体育大会」として、北海道大学の主催で始まった。1946(昭和21)年から日本各地で巡回開催されるようになった国民体育大会(国体)等により、各地に体育施設が整い始めた高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)には、1959(昭和34)年5月26日に1964年東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)の開催が決定し、1961(昭和36)年に「レジャー」が流行語になってレジャーブームが始まり、同1961(昭和36)年10月1日に実施された国鉄ダイヤ改正(サンロクトオ)により、全国的な特急列車網が形成された。とは言え、国民体育大会(国体)のような参加者の移動・宿泊費用に公的補助がある大会とは違い、九州大学がある福岡市・博多駅から寝台列車で東京駅まで行き、再び長距離列車と青函連絡船を乗継いで、北海道大学がある札幌市・札幌駅まで行くとなると、参加者には相当の時間と費用が掛かった。その後、新幹線の発達、高速道路網の発達に伴なう高速バスの発達、学生のマイカー所有、長距離フェリー航路の発達、航空路線の低廉化等により、参加学生の負担は体力的にも軽減された。開催地・主管校は、毎年七大学の所在地を持回りで行なわれ、非主管校が優勝することを「主管破り」と言う。2004(平成16)年、国立大学の国立大学法人化に伴ない、「国立七大学総合体育大会」から「全国七大学総合体育大会」と改称された。2020(令和2)年には、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大防止のため、夏季種目が中止となった。競技の一律中止は、全国七大学総合体育大会の歴史で初となる。翌2021(令和3)年も、航空の部等、春季種目の一部が中止されている。