4月5日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

横町の日/横丁の日。
「横町の日」は、横町の温かさを知ってもらおうと制定された日。日付は、4月5日の「4」と「5」で、「横(よ[4]こ[5])」の語呂合わせから。「横丁の日」は、東京都港区南青山に本社を置く、地域の魅力ある食材・料理を提供する、個性的な店舗が集まった飲食施設「横丁」を展開する企業、株式会社アスラボが2018(平成30)年に制定している。株式会社アスラボの「横丁」は、全ての飲食を1つの席で1回の会計で楽しむことができ、飲食店の経営者には、少額資金での開業・出店が可能となる等の特長がある。「横丁」を通じて、地域の熱意ある起業家を支援し、地域経済を盛上げることを目的としている。横町(横丁)とは、表通りから横へ入った町筋で、また、その通りという意味であり、メインストリートから外れた脇道である。その起源は、江戸時代の町割にある。江戸の町割は、京間60間(約118m)を一辺とする正方形の地面が基本で、四辺の道路から20間を町地としたが、中央に20間(約39m)四方の空閑地(くがち)ができ、これを会所地と称した。芥所地(ゴミ捨て場)が訛ったものと考えられているが、この会所地は、ゴミ捨て場、悪水溜め、火除地や拝領地等に利用された。江戸の人口が増加するにつれて、悠長に遊休地を置いておく訳にもいかなくなり、町入用や公役銀等の公租公課を工面するため、会所地を地主達が相談して有効利用するようになり、私道を敷設し、それを新道(しんみち・じんみち)といい、この新道が幕府の公認を受けると「横町」と呼ばれた。それで、そこに飲食街ができると「食傷新道」と呼ばれ、屋根屋の職人達が集住すると「屋根屋新道」と呼ばれだ。新道が横町であれば「食傷横町」「屋根屋横町」という訳である。横町と横丁の違いは、横町の方が町裏への通路で「木戸がある」のに対して、横丁は俗称で、普遍的通り道(一般道)で木戸はない。同じ脇道であるが、横町が公用語であることで、横丁は町の字を遠慮して丁の字を用いたのとされる。「丁」の字義には、「出会う、行き交う」の意がある。新道・横町の管理人が「大家」で、大抵が隠居仕事であったので「横町のご隠居さん」という言葉が生まれた。現在では、「横丁」と「横町」は同じ意味で使われるようになっている。代表的な横丁としては、大阪市浪速区恵美須東にある「ジャンジャン横丁」(正式名称は「南陽通商店街」)、東京都新宿区西新宿にある「思い出横丁」(「やきとり横丁」等とも呼ばれるが、正式名称は「新宿西口商店街」)、三重県伊勢市の伊勢神宮皇大神宮(内宮)前にあるお蔭参り(お伊勢参り)で賑わった、江戸時代末期から明治時代初期の門前町の町並みを再現した観光地である「おかげ横丁」等、多数が挙げられる。
新子焼きの日。
北海道旭川市5条通に事務局を置く、新子焼きを提供している飲食店や食肉会社等で結成された任意団体、旭川名物「新子焼き」の会が、旭川市の名物である新子焼きのおいしさを、多くの人に知ってもらうことを目的として、2014(平成26)年に制定。日付は、4月5日の「4」と「5」で、「新子(し[4]んこ[5])」と読む語呂合わせから。会員店では、当日に店内限定で、割引価格で新子焼きを提供したり、期間中には、抽選でプレゼントが当たるアンケート企画や、ノベルティをプレゼントしたりといった、さまざまな仕掛けを行なっている。若鶏の半身を焼いてタレ等で味付けをした新子焼きは、第二次世界大戦後間もなく誕生し、時代と世代を越えて今もなお愛され続けている旭川のソウルフードである。当時、一部の地域で、出世魚であるコハダの稚魚(シンコ)に因んで、若鶏を新子(シンコ)と呼ぶ風習があり、そこから名付けられたという。第二次世界大戦後の旭川市には養豚場は多かったが、養鶏場は少なかった。そんな旭川市で、食料不足と積雪寒冷の自然環境から、たんぱく源として比較的安価な鶏肉が選ばれ、なおかつ、成長を待っている暇も無いため、若鶏の段階で最大限に栄養を取る料理法として開発された、と考えられている。タレで味付けするのが、旭川市での特徴とされる。
よごそうデー。
東京都中央区日本橋茅場町に本社を置く、生活用品、化粧品等を幅広く扱う、日本を代表する化学メーカーで、発売している衣料用洗濯洗剤「アタック」が、2017(平成29)年で誕生から30周年を迎えた、花王株式会社が制定。子どもから大人まで、よごれを気にせず夢中になって思いっきり楽しんだり、挑戦したりすることで成長してほしい、という願いが込められている。日付は、4月5日の「4」と「5」で、「汚そう(よ[4]ご[5]そう)」と読む語呂合わせから。花王株式会社は、洗剤、トイレタリーで国内では1位、化粧品は2位となっており、原料からの一貫生産と物流・販売システムに強みがあり、国内外に多くの工場や販売拠点を持っている。数多くの部門でトップシェアを誇り、特に、洗濯用洗剤のシェアは圧倒的で、最近では、体脂肪をエネルギーとして燃やし易くする飲料「ヘルシア」のような機能系食品や、ペット用品も販売しており、高い収益力を誇っている。1887(明治20)年に、石鹸や輸入文房具等を販売する長瀬商店を開業した長瀬富郎は、外国製の石鹸に比べ、国産の石鹸の品質が劣っていることに不満を持ち、石鹸の自社製造を決意する。1890(明治23)年、満足できる品質の石鹸製造に成功し、「花王石鹸」を発売した。その後、長瀬商店は幾多の変遷を経て、現在の花王株式会社へと発展した。1987(昭和62)年にコンパクト粉末洗剤として発売された「アタック」は、後に液体洗剤も発売され、現在では、部分洗い用液体洗剤や漂白剤・柔軟剤を配合した粉末洗剤等、消費者のニーズに合わせて様々な製品がある。なお、1969(昭和44)年には、当時の花王石鹸(現在の花王株式会社の前身)から、大型洗剤、酵素無配合の「アタック」が発売されているが、1973(昭和48)年から1974(昭和48)年頃に製造が終了している。花王株式会社の洗濯用合成洗剤である「ザブ」に代わる主力商品として発売された「アタック」は、「ザブ」が「ガンコな汚れに」のキャッチフレーズで知られたのに対し、「アタック」は「わずかスプーン1杯で驚きの白さに」をキャッチフレーズとした。製品には計量スプーンが添付され、手を汚さずに投入できる他、1回当たりの使用量を正しく守ることができるよう工夫された。それでも、初期の製品には使い過ぎを防ぐため、箱の内側に「スプーン1杯で汚れ落ちは十分です」と書かれていた。現在の形式のコンパクト洗剤は、「アタック」が世界初であり、箱の大きさは、それまでの洗剤のそれと比べ、約4分の1以上に小型化された。また、「バイオ酵素」(「アルカリセルラーゼ」という青い粒子)が配合され、従来の洗剤では落とせなかった、繊維の奥の汚れを落とす等、機能面の優位性もアピールされた。これにより、「アタック」は洗濯用洗剤ではシェア第1位となり、現在に至るまでトップシェアを守り続けている。「アタック」の発売により、同年には中小の洗剤メーカー数社が、コンパクト洗剤の市場に参入し、殆どの洗濯洗剤が瞬く間に小型化された。
横引シャッターの日。
東京都足立区綾瀬に本社を置く、横に軽く引くだけで動かせる。有効スペースを最大限に使える。曲線スペースにも設置できる等、さまざまなメリットのある横引シャッターを製造販売する企業、株式会社横引シャッターが制定。シャッターは上下に開閉するもの、という先入観を変えて、横引シャッターの機能性・利便性・意匠性・使い勝手等の良さを、多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、4月5日の「4」と「5」で、「横(よ[4]こ[5])引」と読む語呂合わせから。シャッター専業メーカーの株式会社横引シャッターは、特に、特許を取っている「上吊式横引きシャッター」では定評があり、2019(令和元)年現在トップシェアを持ち、KIOSK(JRグループの駅構内にある小型売店)や地下鉄の売店等で広く採用されている。横引シャッターの種類は豊富で、中を見せずに防犯性を高めるものや、室内を敢えて見せ、防犯するもの、防火・防煙の機能を持つもの、防犯に特化したアルミ製のもの、天然木や木目柄のもの等がある。
達治忌。
詩人・翻訳家・文芸評論家、三好達治の1964(昭和39)年の忌日。大阪市出身の三好達治は、叙情的な作風で人気を博した他、多数の歌の作詞に関わった。処女詩集『測量船』等、十数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、随筆集『路傍の花』『月の十日』等がある。また、1952(昭和27)年に発売された、中国文学者の吉川幸次郎との共著である唐詩の紹介書『新唐詩選』(岩波新書青版)は半世紀を越え、絶えず重版されている。三好達治の墓は、大阪府高槻市上牧町に所在する日蓮宗の仏教寺院、法華山本澄寺にある。第41世住職である三好達治の甥、三好龍紳(昭和期の詩人でもある)によって、境内に三好達治記念館が建てられている。