4月5日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

デビューの日(続き)。
1974(昭和49)年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)のV10が消えた日、長嶋茂雄は現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は、長嶋茂雄引退の記事一色となり、中日ドラゴンズの優勝は、まるで脇に追いやられてしまったかのような感となる。1974(昭和49)年10月14日、長嶋茂雄の引退試合となった対中日ドラゴンズ戦の第1試合では、現役最後の本塁打を放った。この試合では、王貞治も本塁打を放ち、最後(106本目)のONアベック本塁打が記録された。第1試合終了時、長嶋茂雄は外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、全く予定外の行動であった。長嶋茂雄は、この時の行動について「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている。第2試合終了時、長嶋茂雄は名残惜しむように1人1人と握手し、最後は王貞治と腰に手を寄合いながらベンチに引揚げた。そして、引退セレモニーのスピーチでは、「我が巨人軍は永久に不滅です!」という言葉を残し、長嶋茂雄の引退は、読売新聞の1974(昭和49)年十大ニュースの4位になる等、スポーツに留まらない社会的事件ともなった。同年11月21日、選手時代に付けていた背番号3は、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の永久欠番と認定された。
オープンカーの日。
神奈川県横浜市栄区小菅ヶ谷に本部を置く、日本国内におけるオープンカー愛好者による非営利の任意団体、日本オープンカー協会が2016(平成28)年に制定。オープンカーの魅力を多くの人に知ってもらい、その快適さを伝えていくことが目的。日付は、4月が桜の舞う中を走れる、オープンカーにとって最高のロケーションの時期であることと、オープンカーは五感に訴え掛ける車であることから4月5日に。オープンカーとは、屋根がないか、若しくは屋根開放が可能な乗用自動車を指す言葉で、和製英語である。馬車の歴史からボディスタイルを詳細に区別する欧米では、アメリカ合衆国ではコンバーチブル、イギリスではロードスター、若しくはドロップヘッドクーペ、フランスやドイツではカブリオレやカブリオと呼ばれるものが、現代の代表的なオープンカーである。現代では、開放的な走りを楽しむ趣味的な車として使用されることが多い。客室が開放され外部へのアピールができるため、このタイプの車両は、馬車の時代から各種のパレードや式典等でも用いられている。また、現在では、殆どの車種が折畳みや取外しが可能な幌を備えており、車種によっては、収納式や取外しが可能なハードトップ(硬い材質でできた自動車の屋根)が用意されているものもある。黎明期の自動車は、基本的に全てがオープンカーであった。当時の自動車は、通常は剥き出しで、当時の馬車では既に当たり前であった箱型の客室ではなく、よくても重量の少ない簡単な幌しか付いていなかった。やがて、自動車が広く一般家庭にまで普及し、エンジンの出力が上がって、必要なだけの馬力とスピードが確保できるようになると、二の次であった車内の居住性にも配慮できるようになり、恒久的な屋根で被われた箱形の自動車が以後の主流となった。日本では、オープンカーは伝統的に「幌型」と呼ばれ、現在の自動車検査証(自動車の所有者や使用者を公証したり、当該自動車が検査時点に於いて、自動車保安基準に適合していたことを証明する公文書)上でもそう表記されている。日本車で1933(昭和8)年に登場した日産自動車のダットサン12型フェートンに始まり(フェートンは、20世紀前半のオープンボディースタイルの主流であった一形式を指し、折畳み式の幌を備えた乗用車で、主に2列4人乗以上の4ドア幌付オープンカーに対する名称であった)、1935(昭和10)年にダットサン14型ロードスターで、ロードスターの名が使われた。2名分のシートをトランクルーム格納式とした2+2のクーペをベースとした、よりスポーティーなロードスターがラインナップに追加された。その後、この流れは、第二次世界大戦後初のスポーツカーとなった1952(昭和27)年のダットサン・スポーツDC-3や、イギリスの自動車メーカー、オースチンとの提携による「ダットサン・1000」をベースとしたFRPボディーを採用した、1959(昭和34)年の「フェアレディ」へと受継がれてゆく。これらは、車名にロードスターの名は付けられなかったが、北アメリカでは、後継となる SR311型(フェアレディ2000) まで、ダッツン(ダットサン)・ロードスターとして親しまれた。1962(昭和37)年には、四輪車製造に参入したばかりの本田技研工業がS360を発表し、後のSシリーズの布石となる。しかし、1960年代末からは、主な輸出先となる北アメリカの保安基準の強化による一般的な屋根付き車体(クローズドボディー)への移行や、排ガス規制に対応を迫られた時期の開発費の削減等の理由の他、オイルショック(原油の供給逼迫、及び原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱)等の社会的な背景から、その後、このジャンルは、「ユーノス・ロードスター」の登場まで、長期に亘る空白を迎える。また、その他のオープンカーも、高い趣味性ゆえ、流行や景気の動向にその売上が左右され易いこと等から、幾度となく市場からの撤退を余儀なくされている。マツダが1989(平成元)年に発売した「ユーノス・ロードスター」(後の「マツダ・ロードスター」)は、新時代のロードスター車の先駆けであり、今日では「ロードスター」の代名詞となった。「ユーノス・ロードスター」は、マツダの大衆車であるファミリア用の1,600ccエンジンを改良したものを車体前部に搭載し、後輪を駆動させ、専用の車体を与えられた。1980年代前半以来、この分野は隙間市場となっており、化石的とも言える旧世代の生き残りモデルも絶えて久しく、一部の海外高級車を除く殆どの自動車メーカーも、進んで手を出すことがなかった。しかし、「ユーノス・ロードスター/マツダ・ロードスター」は、2004(平成16)年4月までに約70万台を出荷し、2人乗りの小型オープンスポーツカー生産台数世界一として、『ギネス世界記録』(イギリスの出版社、ギネスワールドレコーズが、地球上のあらゆる世界一を探求し、認定・登録してきた記録集)に認定される等、この分野での最高の成功作となった。また、2002(平成14)年には、ダイハツ工業の軽自動車規格の前輪駆動2人乗りオープンカー「ダイハツ・コペン」、2015(平成27)年には、本田技研工業の軽自動車規格の2人乗りオープンカー「ホンダ・S660」が発売される等、新車の開発も僅かながら続いている。2020(令和2)年6月、トヨタ自動車が展開する高級車ブランド、レクサスが販売するフラッグシップ2ドアクーペ「レクサス・LC」に、コンパーチブル仕様が追加された。オープンカーの安全面で問題となるのが、ロールオーバー(横転)した場合の、乗員に対する重大な危険性である。Tバールーフ(ルーフパネルの中央を細く残して、左右ルーフが取外し可能な構造のオープンカー)や、頭上のルーフパネルのみを外せるようになっているタルガトップ、又は、横転時に瞬時に突出して、頭部を保護する干渉装置等の安全機構の装備が存在する。ユーロ NCAP(ヨーロッパ新車アセスメントプログラム、ヨーロッパで実施されている自動車安全テスト)等の第三者機関による衝突安全テストでは、オープンカーは、それ単体でクラス分けされ、クローズドボデーとは異なる基準でテストされている。