4月5日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

デビューの日。
1958(昭和33)年4月5日、超大型新人として活躍の期待が高かった読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の長嶋茂雄が、対国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)戦に3番サードで先発出場してデビュー。国鉄スワローズのエース金田正一に4打席連続三振を喫したが、その全てが渾身のフルスイングによる三振であったことが、伝説的に語り継がれている。これに因んで、その年デビューした新人にエールを送る日、とされている。長嶋茂雄は、闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の4番打者として活躍し続け、多くの国民を熱狂させた。「ON砲」として並び称され、通算本塁打868本を記録した王貞治と共に、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)のV9(1965[昭和40]年から1973[昭和48]年まで、9年間連続してセントラル・リーグ優勝を果たし、プロ野球日本シリーズを制覇したこと)に大きく貢献した。2013(平成25)年には、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)、メジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)ではニューヨーク・ヤンキース等で活躍し、1992(平成4)年11月21日に行なわれたプロ野球ドラフト会議で、長嶋茂雄がその交渉権を引当て、その後も師弟関係にあった松井秀喜と同時に、国民栄誉賞を受賞した。長嶋茂雄は、オープン戦で7本の本塁打を放つ等、活躍の期待が高まる中で開幕戦を迎えた。オープン戦の最中、ある解説者が長嶋茂雄を褒め称え「金田正一など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを、偶然耳にした金田正一は激昂。この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークが丁度来るようにしたという。長嶋茂雄は、翌日の試合でもリリーフ登板した金田正一に三振を喫している。その後、長嶋茂雄は金田正一を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。長嶋茂雄の最終的な対金田正一通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。4月7日の国鉄スワローズ戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)戦で権藤正利から初本塁打を放つと、8月6日の対広島カープ(現:広島東洋カープ)戦から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。9月19日に行なわれた対広島カープ戦(後楽園球場)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取消された(記録はピッチャーゴロ)。もし、このベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた。長嶋茂雄は、翌9月20日の対大阪タイガース(現:阪神タイガース)戦で28号を打直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成した。最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮謙次郎がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋茂雄は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし、長嶋茂雄は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。同年は全イニング出場を達成したが、新人での全イニング出場は、1956(昭和31)年の佐々木信也(高橋ユニオンズ[現在の千葉ロッテマリーンズの系譜に属する、短期間活動した球団])に次ぐ史上2人目、セ・リーグでは史上初であった。新人選手の全イニング出場は、その後1961(昭和36)年に国鉄スワローズの徳武定之が記録したが、以後現在に至るまでこの3名だけである。また、新人の89得点は戸倉勝城(毎日オリオンズ[現在の千葉ロッテマリーンズの前身となる球団])の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録である。その他にも、新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。複数の投手が、また、捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した、第二次世界大戦後初、そして、捕手として世界初の三冠王、出場試合数歴代2位、監督としても出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算犠飛数歴代1位等の記録を持つ野村克也が、長嶋茂雄を「計算できないバッター」と評している。1960年代後半から1980年代前半にかけて、阪神タイガースや広島東洋カープ等で活躍した江夏豊は、「打席毎に何故打たれたのか、何故打取れたのかが全く分からない」と長嶋茂雄について語っており、野村克也は、長嶋茂雄を「来た球を打てる天才」と称している。長嶋茂雄は、極端とも言えるアウトステップが特徴であった。王貞治や長嶋茂雄らを率いて、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」達成した川上哲治は、「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室等では「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。この点は、金田正一も触れており、「シゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。凄い迫力だった」と語っている。長嶋茂雄の空振りは、脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んで行ったと言われる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。三振した際の画を考え、わざと小さめで楕円形のヘルメットをアメリカから取寄せて、ヘルメットの飛んでいく角度等、空振りの練習をしていたこともあったという。そのような豪快な空振りや、デビュー時の4打席4三振等から三振のイメージが強いが、実際には、スラッガーとしては三振は少ない方であった。王貞治がホームランバッターとして覚醒して以降は、本塁打王のタイトルを獲得することはなかったが、特に、打率と打点で二冠王であった1963(昭和38)年は、王貞治と僅か3本差で本塁打王のタイトルを逃している。大舞台でよく打ち、勝負強さが印象付けられている。日本シリーズでは、通算68試合に出場して出塁率.402、長打率.694の成績を残し、シリーズの初戦では、通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。2本塁打を放った天覧試合(1959[昭和34]年6月25日の対大阪タイガース第11回戦で、プロ野球公式戦では唯一の天皇が観戦した試合)については、チームメートでセ・リーグを代表する遊撃手と称された広岡達朗は、「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している。なお、第124代天皇、昭和天皇とその后、香淳皇后の両陛下が、初めてプロ野球の試合を球場でご覧になった天覧試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋茂雄が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋茂雄の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。それまでは、大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は、軽んじて見られている面もあったが、以降は、国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」とも言われている。