4月4日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1木曜日 旧暦  2月26日、先負(戊戌)、月齢 24.7 
グレゴリオ暦で年始から95日目、年末まであと271日。
誕生花 カスミソウ(霞草)・アネモネ(赤)・カスミソウ(白)・スモモ。

二十四節気・雑節等
清明。
二十四節気の1つ、旧暦三月節気。太陽黄経が15度の時で、4月5日ごろ。万物がすがすがしく明るく美しいころ。暦便覧には「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と記されている。様々な花が咲き乱れ、花見シーズンになる。各地域での桜の開花予想日は、毎年2月から4月にかけて各民間気象会社から発表され、同じ日に開花予想された地域を結んだ線は、桜前線と呼ばれる。この前線は、各地のソメイヨシノの標準木を基準にしているため、小地形・小気候・品種によっては、開花の時期が前後することがある。2009(平成21)年までは、気象庁から毎年3月に発表されていた。気象庁では、サクラの開花日とは、標本木で5輪から6輪以上の花が開いた状態となった最初の日を指し、満開日とは、標本木で80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日を指す。このように、花見の適期は地域によって異なり、年度末の3月が適期の地域では卒業式や送別会、年度初めの4月が適期の地域では、入学式や始業式、歓迎会等とのイメージと重なり合い、それらを祝う宴会として花見をする場合もある。観光客を集める桜の名所では、天候や春休み・土日・ゴールデンウィーク等の休日に、花見の適期が重なるかどうかが集客を大きく左右する。名所では、集客が多い期間を予想して「さくら祭り」等と呼ばれる期間を設定し、駐車場や出店に人員配置がなされる。近年では、地球温暖化や気候変動が原因とも言われる開花時期の早まりにより、花見の適期も変化しているため、「さくら祭り」の主催者は、イベントプロモーターとして高度な手腕が必要とされるようになってきた。なお、沖縄県では、花見の習慣は基本的に存在しない。沖縄県で代表的な桜はカンヒザクラ(サクラの原種の1つで、別名はヒカンザクラ[緋寒桜]、タイワンザクラ[台湾桜]、ヒザクラ[緋桜]であるが、ヒガンザクラ[彼岸桜、葉より先に花が咲き、咲き始めは他種に比べると1週間から10日程早く、春の彼岸頃に花を咲かせることからこの名前が付いた]とは別種で、中国南部から台湾、沖縄や鹿児島県奄美地方にかけて分布する)で、その開花時期は例年1月、つまり、九州以北では真冬となる時期である。同様に、北海道でも道東・道北を中心に、花見の習慣はそれ程盛んではなく、代わりに、秋の紅葉シーズンに「観楓会」と呼ばれる宴会が実施される習慣がある。桜吹雪とは、桜林や桜並木のある所で、風等により数多くの花弁が舞い散るさまであり、その美しさも愛でられる。全て散った後には、葉桜と呼ばれる状態になる。
燕来る。
七十二候の1つ(13候)。

沖縄県誕生の日。
1879(明治12)年3月27日、明治政府から琉球処分官としての命を受けた内務官僚(地方行財政と警察行政の総括官庁である内務省[現在の総務省、国家公安委員会、警察庁、国土交通省、厚生労働省等の前身]の高官)の松田道之が、警官や陸軍部隊(熊本鎮台分遣隊)約400名の武力を背景に首里城(最盛期には奄美群島と沖縄諸島、及び先島諸島までを統治した琉球王国の王城)正殿に乗込み、第二尚氏王統琉球王国第19代国王、尚泰王に首里城からの退去を命じ、琉球藩(1872[明治5]年の「第一次琉球処分」の際に設置された藩)を廃し、沖縄県を設置する「廃藩置県」を通達した。そして、1879(明治12)年4月4日には「琉球藩ヲ廃シ沖縄縣ヲ置ク(明治12年4月4日太政官布告第14号)」で、琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告した。これにより、15世紀初めに統一国家として成立して以来、約450年余(14世紀に琉球を支配していた察度王統からは約500年余)続いた琉球国の体制は終わりを告げ、日本国の1県として沖縄県が設置された。「沖縄」という地名の由来は、「沖あいの漁場」を意味する「おき(沖)な(魚)は(場)」を由来とする説や、「沖にある場所」「遠い場所」を意味する「おき(沖・遠い)なは(場所)」を由来とする説等があるが、いずれも定説には至っていない。さらに、琉球語(沖縄方言)の「うちなー」(沖縄本島のこと)由来の名称という説もある。「廃藩置県」が通達された「第二次琉球処分」の際、明治政府内では「琉球県」の名称も検討された。中国語由来の琉球に対し、沖縄の方がより日本帰属の意思が明確になるため選ばれたと推察されている。なお、琉球とは、中国語で台湾の古称であり、区別する時は台湾を小琉球、沖縄を大琉球と呼んだ。用語としての「沖縄」は、元々は沖縄本島を指す言葉であったが、沖縄県設置により鹿児島県奄美群島を除く琉球諸島全域が沖縄と呼ばれるようになり、より広義に解釈されるようにもなった。東シナ海と太平洋とに挟まれ、或いは広がる南西諸島の内、鹿児島県に含まれない範囲が沖縄県である。沖縄県を中心にかつて存在した琉球王国の範囲は、沖縄諸島、及び先島諸島、さらには鹿児島県島嶼部の一部が含まれ、それらを総称して琉球諸島と呼ばれるが、沖縄県にはそれらに含まれない大東諸島(沖縄諸島の東部にある島嶼群)も属しており、同一視できない。シーレーン(一国の通商上・戦略上、重要な価値を有し、有事に際して確保すべき海上交通路)、及び軍事的な要地であり、日米の軍事基地が集中する。大東諸島は、日本の排他的経済水域においても重要である。日本で最も西に位置する都道府県であると共に、人の居住する日本最南端の地域がある都道府県でもある。一般には、概ね亜熱帯とされる気候であり、一部は熱帯に属する。日本の中では、年間を通して温暖な気候であり、また、最高気温と最低気温の差も小さい。その歴史的経緯から、文化的・習俗的・苗字的にも本土とは大きく異なり、俗に県外のことを「内地」、県民以外の人を「内地人(ナイチャー)」と呼び分ける場合がある。本土とは異なる独自の文化・地理的特徴・亜熱帯の気候等を強みに、観光分野に力を注いでおり、産業の約85%を観光業を含む第三次産業が占めている。一方で、第一次産業は約2%、第二次産業は約12%と非常に低い。また、健康的な伝統的食文化に根差した国内有数の長寿地域としても知られるが、一方で、アメリカ統治時代に根付いたジャンクフードとも呼ばれる食文化も存在し、両面合わせて沖縄料理として紹介されている。49の有人島と多数の無人島からなり、0.01平方km以上の面積を有する島は160島存在する。最東端から最西端までは約1,000km、最北端から最南端までは約400kmと、広大な県域を持つ。 南西諸島は、鹿児島県から台湾近くまで長く延びており、地理的分布では北のトカラ列島までと、奄美群島と沖縄諸島、及び先島諸島の3つに大きく分けられる。沖縄本島と先島諸島の伊良部島との間は直線で約250km、与那国島と台湾の間は約100kmであるのに対し、奄美大島と屋久島の間は約200kmである。離島が多いものの、離島の医療は人材的・経済的理由から不足気味であり、病院がなく、診療所のみという島も多い。そのため、離島で治療できない急患患者の沖縄本島への空輸を、陸上自衛隊や海上保安庁が行なっている。なお、宮古島、石垣島には県立の総合病院が設置されているため、それらの島の周辺離島での急患は、沖縄本島ではなく宮古島や石垣島に搬送される場合もある。沖縄本島の中部・南部は、那覇市・沖縄市を中心として都市化・人口集中が進んでおり、全面積の約5分の1に110万名以上が居住している。そのため人口密度は全国で第9位であり、三大都市圏の都府県を除くと、福岡県に次いで2番目に多い。全都道府県の中で唯一、沖縄県には、JRグループ各社の路線が敷設されていない。これは、国鉄(日本国有鉄道、現在のJRグループ)時代から同様であるが、鉄道小荷物(チッキとも呼ばれる、鉄道で旅客が託送する手荷物)については、琉球海運(1950[昭和25]年、官民共同出資により設立された、那覇市に本社を置く海運会社)等との連絡運輸により、取扱いが行なわれていた。なお、かつては、那覇市に九州旅客鉄道(JR九州)沖縄支店が設置されていたが、2017(平成29)年3月17日をもって閉店したため、JRグループの営業拠点が全く存在しなくなった。沖縄県は、日本で唯一、国鉄バスからJRバスへの定期旅客営業路線が、歴史上において存在したことのない都道府県である。しかし、沖縄本島では、那覇市内のモノレール路線、沖縄都市モノレール(ゆいレール)以外に鉄道がないため、都市内、及び都市間を結ぶ交通機関として、島内各地にバス路線網が展開されている。また、石垣島や宮古島でも、島内の交通機関としてバス路線網がある。他に、島の港・空港・中心集落・観光地を結ぶ交通手段として、小規模な路線バスの運行が行なわれている島も多い。沖縄県の伝統的な建築は、主に琉球王国時代に発展した。建造物の多くは、建築様式や素材・技術等で他地域の建築(主に日本建築や中国建築)との類似点が多く見られるが、風土等の面で異なるために、独自の発展が見られる。王朝時代において、琉球士族等を中心に瓦葺きの木造建築である貫木屋(ヌチジャー)、庶民は主に穴屋(アナヤー)と呼ばれる掘立小屋に住居を構えていた。また、住居以外には、城壁や橋梁等の石造建築物に琉球石灰岩が多く使用されたが、沖縄戦により失われた建築物も多い。戦争により多くの木造住宅だけでなく山林が消失し、大量の職人と資材が失われ、復興をアメリカ軍が主導する形で、ツーバイフォー構造(耐力壁と剛床を強固に一体化した箱型構造で、木造枠組壁構法とも呼ばれる)の建物が多く建てられた。現在では、台風やシロアリに強い鉄筋コンクリート構造に、給水タンク(大きな河川がなく、幾度も水不足を経験したため)を設置した住宅が一般的になっている。