4月3日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

神武天皇祭。
初代天皇とされる神武天皇の崩御日に当たる4月3日に毎年行なわれ、神武天皇の天皇霊を祭る。崩御日は、奈良時代に成立した日本に伝存する最古の正史『日本書紀』によれば、紀元前586(神武天皇76)年3月11日であるが、これをグレゴリオ暦(新暦)に換算して4月3日としている。宮中の皇霊殿(歴代天皇・皇族の御霊が祀られている建造物で、賢所・神殿と共に宮中三殿と呼ばれる)と神武天皇陵に治定(決定的であること)される奈良県橿原市の畝傍山東北陵で儀式が行なわれる。神武天皇祭は、幕末の第121代天皇、孝明天皇の時代、1860(万延元)年3月11日に神武天皇の御陵祭として始まり、1871(明治4)年9月に定められた「四時祭典定則」で規則化され、その後、1908(明治41)年9月19日制定の「皇室祭祀令(明治41年9月19日皇室令第1号)」で改めて法制化された。「皇室祭祀令」は「皇室令及附屬法令廢止ノ件(昭和22年5月1日皇室令第12号)」により、1947(昭和22)年5月2日に廃止されたが、以降も神武天皇祭は、宮中祭祀として存続している。「皇室祭祀令」では、歴代天皇の祭祀は、神武天皇祭、先帝祭、春季皇霊祭、秋季皇霊祭、先帝以前3代の式年祭(決められた期間毎に行なわれる祭祀)を大祭(天皇が自ら行なう祭り)としている。先帝祭は、天長節(天皇誕生日)と同様に、皇位継承によって変更されるものであり、皇霊祭は、春分と秋分に歴代天皇霊を纏めて祭る祭祀であることから、神武天皇祭は、永劫的に特定の一代の天皇を毎年大祭で祭る唯一の祭祀であり、皇統の始祖(皇祖)として、別格の扱いとなっている。神武天皇祭の奉祝行事では、奈良県橿原市にある橿原神宮周辺において、「春の神武祭」が神武天皇祭(4月3日)に近い週末に開催され、橿原神宮のライトアップ、及び映像ショー、古代衣装による参道パレード、植木市、フリーマーケット等が行なわれる。また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年10月14日太政官布告第344号)」、及び「休日ニ關スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)」により、1874(明治7)年から1948(昭和23)年まで、4月3日は同名の休日となっていた。2016(平成28)年には、「神武天皇二千六百年大祭」が行なわれた。橿原神宮は、初代天皇とされている神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた、第122代天皇、明治天皇により、1890(明治23)年4月2日に官幣大社(官[国]から幣帛[捧げ物]、或いは幣帛料を支弁される神社の中で、最高格式となる神社)として創建された。1940(昭和15)年には、第124代天皇、昭和天皇が橿原神宮に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は、約1,000万名に達したとされ、現在でも皇族の参拝がある。橿原神宮は、近代の創建ではあるものの、奈良県内では、奈良市春日野町に所在する768(神護景雲2)年創建の古社、春日大社(全国に約1,000社ある春日神社の総本社)と並んで、初詣の参拝者数が多い神社である。
愛林日。
1895(明治28)年に来日したアメリカの教育家、バードジー・グラント・ノースロップが講演で「愛林日(Arbor Day)」の精神を説き、1898(明治31)年、日本の「公園の父」と言われる本多静六林学博士の提唱により、神武天皇祭の4月3日が「植栽日」となった。1933(昭和8)年に大日本山林会会長の和田国次郎、農林次官の石黒忠篤らにより、4月2日から4月4日までの3日間を「愛林日」として、全国一斉に愛林行事を催すことが提唱され、翌年、日本初の中央植樹行事が、茨城県の「鬼が作国有林」で行なわれた。この中央植樹行事は、現在「全国植樹祭」となっている。「全国植樹祭」は、国土緑化運動の中核的な行事として、1950(昭和25)年に山梨県で第1回が開催されて以来、毎年春に開催されている。「植樹行事並びに国土緑化大会」として第1回が開催され、1970(昭和45)年の第21回(福島県)から現在の名称となった。かつては、参加者の規模が1万名を超えることは珍しくなく、2002(平成14)年に山形県最上郡金山町で開催された会場では約12,000名を数えたが、2000年代に入ると、地方自治体の資金難や、広い植樹会場を設営することが困難等の理由で縮小傾向となり、2013(平成25)年の鳥取県西伯郡南部町の会場では、スタッフを含めて約7,000名規模となっている。大会式典では、天皇の「おことば」、天皇・皇后による「お手植え・お手まき」行事、県内外の参加者による記念植樹、国土緑化運動ポスターコンクール等の表彰行事、大会宣言が行なわれることが恒例となっており、国民体育大会や全国豊かな海づくり大会と並び、天皇が皇后を同伴して出席する、「三大行幸啓」の1つに位置付けられている。しかし、2009(平成21)年の第60回(福井県)からは、当時の第125代天皇、天皇明仁(現在の上皇明仁)の公務負担軽減策の一環として、植樹祭式典での「おことば」は取止めになった。1977(昭和52)年の第28回(和歌山県)からは、秋に過去の植樹祭での手植え・手まきにより成長した木の手入れ(枝払い等)を行なう全国育樹祭が行なわれている。これは、皇太子が出席するものとされ、現在は、皇嗣(皇位継承順位第1位の皇族)となった秋篠宮文仁親王が出席するものとされている。
清水寺・みずの日。
1998(平成10)年、京都市東山区清水に所在する北法相宗大本山の寺院、清水寺等、全国の「清水寺」が結成する「全国清水寺ネットワーク」によって制定された。日付は、4月3日の「4」と「3」で、「清水(し[4]み[3]ず)」の語呂合わせから。京都市にある清水寺で、水と環境に感謝する「心と地球の浄化祈願祭」が行なわれる。山号を音羽山とする清水寺は、794(延暦13)年の平安京遷都以前からの歴史を誇る、京都では数少ない寺院の1つで、京都市内でも有数の観光地でもあり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。さらに、修学旅行の定番となっていて、多くの学生が訪れる。古都京都の文化財として、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録されている。778(宝亀9)年、大和国(現在の奈良県)興福寺の僧で、子島寺(奈良県高市郡高取町にある高野山真言宗の寺院)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心が、その源を辿っていくと、そこには、この山に篭って滝行を行ない、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は、賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。その2年後の780(宝亀11)年、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ武人の坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会った。坂上田村麻呂は、妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るため、自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた坂上田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。798(延暦17)年、坂上田村麻呂は、延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、共に祀った。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願と位置付けている。日本各地に「清水寺」(きよみずでら、せいすいじ)を名乗る寺院が多数あり、中には坂上田村麻呂の開創、又は中興の伝説を有するものもある。 
悪天の特異日。
天気が悪くなる確率の高い日。