4月3日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1水曜日 旧暦  2月25日、友引(丁酉)、月齢 23.7  
グレゴリオ暦で年始から94日目、年末まであと272日。
誕生花 水仙(黄)・アジアンタム・アスター・ゼラニウム・口紅水仙。

日本橋開通記念日。
1911(明治44)年4月3日、現在の東京都中央区にある日本橋が木橋から石橋に架け替えられ、その開通式が開催された。開通式は午後1時から行なわれ、天候は小雨にも関わらず、大勢の見物客が押寄せた。その数は約100万名とも言われ、余りに群集が殺到したため、怪我人が出る程の騒動となった。日本橋には日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっている。なお、道路元標とは、道路の起終点を示す標識である。1873(明治6)年12月20日、政府は「諸街道里程取消方法並ニ元標及里程標柱書式ヲ定ム(明治6年12月20日太政官達第413号)」により各府県毎に「里程元標(りていげんぴょう)」を設け、陸地の道程(みちのり)の調査を命じている。これによると、東京の日本橋、京都の三条橋(三条大橋、京都市中東部にある、鴨川に掛かっている三条通の橋)の中央を国内諸街道の起程とし、大阪府と各県は、府県庁所在地の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とするものとされた。1911(明治44)年に現在の日本橋が架けられた時に「東京市道路元標」が設置され、1919(大正8)年に制定された「道路法(旧法、大正8年4月10日法律第58号)」では、各市町村に1個ずつの道路元標を設置することとされていた。設置場所は府県知事が指定することとされており、殆どは市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市(現在の東京都区部[東京23区])に限っては、「道路法施行令(旧法施行令、大正8年11月5日勅令第460号)」によって、日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。1952(昭和27)年施行の「道路法(新法、昭和27年6月10日法律第180号)」では、第2条第2項第3号で道路元標は道路の附属物とされているだけで、設置場所や道路元標を路線の起終点にする等の特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。道路元標の設置義務がないため、取壊されたり、工事等でいつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくない。日本橋の中央にあった東京市道路元標は、東京都電(東京都電車、東京都が経営する軌道[路面電車])本通線(新橋 - 須田町間)の架線柱として使用されていたが、東京都電本通線廃止後の1972(昭和47)年の道路改修に伴ない、日本橋の北西側袂に移設された。東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。文字は、 第61代 - 第63代内閣総理大臣佐藤栄作によるものである。日本国道路元標の直上の首都高速の高架橋上にも、東京市道路元標に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されている。現在の橋は、19代目、又は20代目に当たるとされる。石造二連アーチ橋で、橋の長さは49m、幅は27m、路面電車を通すことが決まっていた路面は僅かにアーチを描き、橋脚と橋台は山口県産の名石で、内部は、最も荷重のかかる両端がコンクリートで、余り荷重の掛からない中央部分が煉瓦となっている。西洋的な基本デザインに、麒麟と獅子の青銅像や一里塚を表わす松や榎木を取入れた柱模様等、日本的なモチーフを加えた和洋折衷の装飾が採用されている。麒麟像には、日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、手向山八幡宮(奈良市の市街東部の手向山麓に所在)の狛犬やヨーロッパのライオン像等を参考にした獅子像は、東京市の紋章を手にしている。1603(慶長8)年に初代の橋(木造)が架けられ、明治初期には石造の橋が、明治政府に招かれていた元肥後国熊本藩の石工である橋本勘五郎によって架けられた。現在の日本橋は、1999(平成11)年5月13日に国の重要文化財(建造物)に指定されている。しかし、首都高速道路(具体的には都心環状線江戸橋出入口と呉服橋出入口の間)に覆われてしまっている現状から、都市景観の在り方を含めた多くの議論を抱える。現在の日本橋を中心とした地域は、日本銀行本店や東京証券取引所の立地する日本を代表する金融街であり、老舗の百貨店を含めて商業施設も多く、他にも問屋街や多くの製薬会社が連なる地域でもある。例年、1月2日と翌1月3日の2日間に亘って行なわれる大学駅伝の競技会(地方大会)で、学生長距離界最大の駅伝競走である東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の第10区は、1999(平成11)年以降、コースを日本橋経由へ変更している。これは、日本橋周辺の商工会からの要請であると同時に、東海道の始点である日本橋を通るということが、箱根駅伝のクライマックスを飾るに相応しいと判断されたからである。現在、日本橋には、三井財閥(現在の三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだ、大手百貨店の三越や、幅広く不動産開発事業を展開している日本最大手の不動産会社、三井不動産を始めとする三井グループの本社が建ち並び、東京都千代田区丸の内の三菱村(三菱商事や三菱東京UFJ銀行、日本郵船等、多くの三菱のグループ企業が本社を置いている)と並ぶ、三井村と言われている。2005(平成17)年には、重要文化財である三井本館(東京都中央区日本橋室町に所在する、三井不動産保有のオフィスビル)の隣に、大型複合再開発ビルで、マンダリン・オリエンタル東京(香港に拠点を置いている高級ホテル運営会社、マンダリン・オリエンタルホテルグループの日本初進出となるホテルで、史上初となる「6ツ星」ホテルの称号を授与され、世界有数のホテル・ランキングである『世界のベストホテル』において、世界一のホテルと評された)も上層階に入居する、日本橋三井タワー(三井新館)が開業した。広域地名としての日本橋は、現在の東京都中央区北部で、旧日本橋区(東京府東京市、及び東京都)全域を指す。町名の「日本橋」以外で、最寄り鉄道駅名や通称で「日本橋」を冠していなくても、行政上の町名が「日本橋~」である地域も多く、八重洲1丁目も含む。日本銀行本店や東京証券取引所の立地する日本を代表する金融街であり、また、老舗の百貨店を含む商業施設も多く、他にも問屋街や多くの製薬会社が連なる地域である。徳川家康が江戸に幕府を開いた過程で、日本橋周辺の地域は逸早く町地として開発された。さらに、日本橋が架けられ、交通の要所として定められてからは、大手百貨店三越の前身である越後屋を始めとする大店が集まり、付近には金座や銀座が置かれる等、江戸を代表する場所として殷賑を極めた。明治時代には、金座の跡に日本銀行が建てられ、次第に洋風建築も増え、近代的な町並みへと変わっていった。1923(大正12)年に発生した大正関東地震(関東大震災)により、甚大な被害を受けた後、定められた土地区画整理事業によって河川や道路の改修、拡幅が行なわれ、昭和通りや浜町公園ができた。古くから日本橋のたもとにあった魚河岸も、現在の東京都中央区南部の旧京橋区(東京府東京市、及び東京都)にある築地へと移転した。