4月1日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

新会計年度。
4月1日から翌年の3月31日を「年度」として括る。江戸時代までは、暦年とは別の「年度」というものはなく、1月から12月までで会計を行なっていた。しかし、明治維新の後、政府の財政が苦しく、暦年と合わせることができなくなって、「年度」が作られた。その為、大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織]で、金融に関する制度の企画立案、金融機関の検査、監督、監視を担当する中央行政機関、金融庁の一部の前身)の創立当初は、年度の始期が頻繁に変えられた。1886(明治19)年に、現在の4月から翌年3月までとなった。国家の会計を1年間で区切る方法は、律令国家の段階から存在していたとみられ、7世紀末期には「旧暦1月 - 旧暦12月制」が導入され、これに基づいて租税の納付・輸送、監査(勘会)、官司(古代日本における官庁、及び官人組織)からの請求と実際の予算配分等が実施されていた。明治政府における「会計年度」は、1868(明治元)年においては、従来の慣例に従って「旧暦1月 - 旧暦12月制」であった。近代大蔵省(現在の財務省の前身)が1869(明治2)年8月15日(旧暦では7月8日)に創立すると、同年旧暦9月に「金穀出納ノ実計ニ適合セス」として、会計年度は新米の収穫後に合わせて「旧暦10月 - 旧暦9月制」と決められ、同年より導入された。1872(明治5)年旧暦10月には、旧暦(太陰太陽暦)から新暦(グレゴリオ暦)への改暦に合わせて「1月 - 12月制」に変更するとし、1873(明治6)年1月から実施した。1873(明治6)年7月28日に「地租改正法(明治6年7月28日太政官布告第272号)」が制定されたため、1874(明治7)年10月には地租(土地を対象に賦課された租税)の納期(第1期が8月)に合わせた「7月 - 6月制」の導入が決定され、1875(明治8)年7月から実施した。1876(明治9)年の秩禄処分(秩禄[華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称]給与の全廃政策)により、明治政府は財政健全化の道筋をみるが、数々の特権廃止に反発する士族反乱は頂点に達し、1877(明治10)年に西南戦争(現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、明治維新の立役者の1人で、明治政府の首脳となったが、武力による朝鮮との修好条約締結[征韓論]を巡って他の政府首脳と対立して下野した、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱)が勃発した。政府は、多額の戦費を捻出するため不換紙幣(本位貨幣[正貨たる金貨や銀貨]との兌換[引換えること]が保障されていない法定紙幣)を濫発し、インフレーション(貨幣の購買力が実質的、又は長期的に低下することで、一般物価指数の上昇に具体的に現われる)が発生した。1881(明治14)年の明治十四年の政変(自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残すドイツ帝国の憲法、ビスマルク憲法か、イギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を、政府から追放した政治事件)により、「積極財政」を敷く大隈重信が政府から追放されると、松方正義により紙幣整理が推し進められた。これを、松方デフレ(デフレーション[物価が持続的に下落していく経済現象]誘導の財政政策[デフレ不況])という。政府も「緊縮財政」を実施するが、松方デフレの影響で税収は減少しており、煙草税や酒造税、醤油税等の増税、官営模範工場(明治政府が殖産興業の政策のため、率先して新しい産業を興すべく創設した工場)の払下げも行なった。一方で、1882(明治15)年の壬午事変(朝鮮の漢城[現在の韓国の首都ソウル]で発生した大規模な兵士の反乱)により、翌年から大日本帝国海軍の拡充計画が進んだため、財政赤字の穴埋めの必要が生じて、1885(明治18)年度の酒造税を1884(明治17)年度に繰入れしてしまった。翌年度の税収を繰入れてしまったこの状況を改善するには、1886(明治19)年度より酒造税の納期(第1期が4月)に合わせて年度変更する他に方法がないことになり、1884(明治17)年10月に「4月 - 3月制」の導入が決定され、1886(明治19)年4月から実施された。当時の日本酒は、杜氏(日本酒の醸造工程を行なう職人集団、即ち、蔵人の監督者であり、なおかつ酒蔵の最高製造責任者)が寒造りで製造するのが一般的であり、杜氏は、稲作の秋の収穫期が終わった農民が、冬場の出稼ぎとして担っていた。そのため、酒造税の納期は、新酒の醸造が行なわれる冬場を除いた3期に分かれ、4月に第1期、7月に第2期、9月に第3期となっていた。「4月 - 3月制」は、1889(明治22)年の「会計法(明治会計法、明治22年2月11日法律第4号)」(1947[昭和22]年、「会計法を改正する法律[昭和22年3月31日法律35号]」により全部改正される)制定により法制化され、市制、及び町村制の施行に合わせて、同年4月より市町村でも実施され、翌年5月より道府県(後に都も)も実施した。
不動産表示登記の日。
1960(昭和35)年4月1日、「不動産登記法(旧法、明治32年2月24日法律第24号)」が改正され(「不動産登記法の一部を改正する等の法律[昭和35年3月31日法律第14号]」の施行による)、「表示登記」(現在は「表題登記」と呼ばれている)という概念が作られた。不動産(土地、及び建物)の物理的現況と、権利関係を公示するために作られた登記簿に登記することをいう不動産登記で、建物、土地共に、新しくできた場合に行なう登記が「表題登記」である。第二次世界大戦前、不動産登記は、不動産の権利関係のみを公示するものであり、不動産の物理的現況を明らかにするものとしては、税務署に、課税台帳としての土地台帳、及び家屋台帳が備えられていた。第二次世界大戦後には、台帳事務は、登記事務と密接な関係があることから、台帳が登記所(登記事務を掌る国の行政機関)に移管された。その後しばらく、登記所において、不動産の権利関係を公示する登記制度と、不動産の現状を明らかにする台帳制度が併存することとなったが、登記簿は申請主義が基本であるのに対し、台帳は登記官の職権によって登録することができたため、両者の間に不一致が生じる等の問題が生じた。そこで、「不動産登記法(旧法)」の改正が実施され、台帳を廃止して、台帳の現に効力を有する事項を、登記簿の表題部に移記する一元化を行なうこととなった。一元化作業は、1971(昭和46)年3月31日、全国の全ての登記所について完了した。この結果、登記は「表示の登記」と「権利の登記」の両方を含むこととなった。なお、「不動産登記法(旧法)」は、2004(平成16)年に全部改正され、「不動産登記法(新法、平成16年6月18日法律第123号)」となって、内容が一新された。
不動産鑑定評価の日。
東京都港区虎ノ門に事務局を置き、不動産鑑定士等と、不動産鑑定士等が所属する鑑定業務法人等を会員として構成される、公益社団法人日本不動産鑑定士協会連合会が制定。社会や国民に向けて、不動産を鑑定する業務と、不動産鑑定士の社会的な役割を周知することが目的。日付は、「不動産の鑑定評価に関する法律(不動産鑑定法、昭和38年7月16日法律第152号)」が施行された、1964(昭和39)年4月1日に因む。この日を中心に、記念講演会や無料相談会等を開催している。不動産鑑定士は、「不動産鑑定法」に基づき制定された国家資格であり、不動産の経済価値に関する高度専門家である。不動産の鑑定評価は元より、それを基礎として、土地の有効利用等も考慮したコンサルティング業務等も行なう。
サーチファンド誕生の日。
東京都中央区日本橋兜町に本社を置く、事業承継問題の解決方法の1つとして注目されているサーチファンド事業を手掛ける企業、Growthix Investment株式会社が制定。日付は、1984(昭和59)年4月1日に世界で初めて、スタンフォード大学(アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州スタンフォードに本部を置く私立大学)を卒業したジム・サザンにより、サーチファンド「ノヴァ・キャピタル」が組成されたことから。サーチファンド(Search fund)とは、アメリカ合衆国発祥の投資モデルで、「譲渡企業」「後継者となる経営者候補」「出資者」の三者間でM&A(企業の合併・買収)を行なうことを指す。サーチファンドの社会的認知度を向上させて、経営者不足による廃業と雇用の喪失を食止めることが目的。2021(令和3)年6月1日に設立されたGrowthix Investment株式会社は、事業としてファンドの設立、及びその運営を行なう。Growthix Investment株式会社は、少子高齢化に伴なった後継者不在による黒字廃業の増加(大廃業時代)を解決するために、ネクストプレナー(後継社長)という新しいキャリア選択の文化を創り、彼らと投資家を繋ぐ。そして、人・企業・資金の必要な3軸全てに携わり、目先の利益に捉われることなく企業価値の向上に寄与する。