3月29日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第5金曜日 旧暦  2月20日、先負(壬辰)、月齢 18.7 
グレゴリオ暦で年始から89日目、年末まであと277日。
誕生花 タンポポ・アリッサム・グラジオラス(ピンク)・ゴボウの花・バイモユリ・スモモ。

八百屋お七の日。
1683(天和3)年、江戸本郷森川宿(現在の東京都文京区本郷6丁目付近)の八百屋の娘、お七が鈴ヶ森刑場(現在の東京都品川区南大井に存在した刑場)で火刑に処せられた。お七の生涯については、伝記・作品によって諸説あり、生年や命日に関しても諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる見聞記(作者は不明で、江戸で頻発した大火の見聞記となっている)『天和笑委集』によると、お七の家は1682(天和2)年12月28日(旧暦)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は、親と共に正仙院に避難した。寺での避難生活の中でお七は、寺小姓の生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引払ったが、お七の生田庄之介への想いは募るばかり。そこで、もう一度自宅が燃えれば、また生田庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、生田庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)に止まったが、お七は放火の罪で捕縛され、鈴ヶ森刑場で火刑に処せられた。お七の恋人の名は、浮世草子(浮世草紙とも呼ばれる、江戸時代に生まれた前期近世文学の主要な文芸形式の1つで、元禄期[17世紀の終わり頃]に、大坂[現在の大阪]を中心に流行し、民衆生活の幅広い主題を扱って多くの作品が書かれた[浮世には、世間一般という意味と、色事、好色といった意味がある])の創始者である井原西鶴の浮世草子『好色五人女』や、井原西鶴を参考にした作品では、吉三郎とするものが多く、その他には、山田左兵衛、落語等では吉三(きっさ、きちざ)等、さまざまである。『天和笑委集』は、お七の処刑の僅か数年後に出された、見聞記という体裁の実録体小説である。相前後して、お七処刑の3年後の1686(貞享3)年)に、大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で、八百屋お七の物語を取上げている。井原西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎等の芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等、さまざまな形で取上げられている。よく知られているにも係わらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史資料である江戸時代前期の歌学者、戸田茂睡の見聞記録『御当代記』(江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の就任に筆を起こし、徳川綱吉の性格、施政の動向、江戸市中の風俗から天変地異等、戸田茂睡の見聞した諸事件を、批判を交えつつ詳細に編年体で記述していて、元禄時代の政治や世相について信頼度の高い史料であると共に、歌道改革者としての戸田茂睡の性格考察にもよい材料といい得る)で語られているのは、「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに、後年の作家はさまざまな想像を働かせている。多数ある八百屋お七の物語では、恋人の名や登場人物、寺の名やストーリー等、設定はさまざまであり、殆どの作品で共通しているのは、「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説等の「読むお七」、落語等の「語るお七」では、お七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵等の「見せるお七」では、お七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り、火事の知らせの半鐘、若しくは太鼓を打つストーリーに変更される。ただ、火事ではないのに、火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である。歌舞伎や文楽では、振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面は、最も重要な見せ場となっていて、現代では、喜劇仕立ての歌舞伎・浄瑠璃「松竹梅雪曙」等以外には、櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演することが多い。さまざまある設定の中には、幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師、月岡芳年の「松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)」や、漫画家、美内すずえの少女漫画作品で、累計発行部数が5,000万部を突破した大ベストセラー『ガラスの仮面』等のように、放火と火の見櫓に登る場面の両方を取入れる作品や冤罪とするもの、明治期から昭和期前半に活動した劇作家・作家、真山青果の戯曲のように、放火とせずに失火とする創作等もある。天和の大火は、駒込(現在の東京都豊島区に所在)の寺院、大円寺から出火したとされ、1682(天和2)年12月28日(旧暦)正午頃に発生し、翌朝5時頃まで延焼し続けた。死者は最大3,500名余と推定される。江戸時代における江戸の火事は、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残り、現代では、江戸が「火災都市」と呼称される程、頻繁に発生した。大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。江戸時代には、江戸では49回もの大火が発生した。江戸以外の大都市では、京都が9回、大阪が6回、金沢が3回等であり、比較して江戸の多さが突出していると言える。大火の内、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)、1772(明和9)年の明和の大火(行人坂の火事)、1806(文化3)年の文化の大火(車町火事、牛町火事)を総称して、江戸三大大火と呼ぶことがある。3,500名もの死者を出したともされる天和の大火ですら、江戸三大大火の中に入らない程、江戸の大火は数多いものであった。お七は、天和の大火で避難した檀那寺(菩提寺、代々その寺の宗旨に帰依して、位牌を納めてある寺)でその寺の小姓に一目惚れし、再び火事になれば再会できると思い、自宅に放火したとされる。火はすぐに消し止められ、ぼやに止まったが、お七は捕縛されて火刑に処せられた。このことから、天和の大火は「お七火事」とも呼ばれるようになった。この火事では、八百屋お七が放火した訳ではなく、むしろ被害者である。井原西鶴の浮世草子『好色五人女』は、お七の事件の僅か3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い。井原西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に、演劇系統は井原西鶴を下地にした浄瑠璃作家・狂歌師・俳人、紀海音の作品を基にするものが殆どであり、井原西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受継いでいる作品が大多数を占めることからも、井原西鶴の影響の大きさが推測される。江戸時代にもインフルエンザ(流行性感冒[流感])の流行は多く、お七が亡くなった1683(天和3)年以降の100年間に限っても11回の流行があった。お七の死から120年近く経過した1802(享和2)年の流行は、漂着した外国人から伝わっていったとされるもので、長崎から九州各地、さらに、上方(江戸時代に京[現在の京都]や大坂[現在の大阪]を初めとする畿内を呼んだ名称)に流行の範囲を広め、その外国人の出身地をとった「アンポン風」や、流れ着いた地の「さつま風」、或いは、その頃お七の小唄が流行っていたため、「お七風」とも呼ばれた。上方では、病人がいない家はない程流行したが、死者は多くは出なかったインフルエンザ(流行性感冒[流感])である。なお、お七が干支の丙午の年の生まれであったことから、丙午生まれの女子が疎まれるようになった。また、丙午生まれの女性は、気性が激しく夫の命を縮める、という迷信に変化して広まった、とされる。