3月28日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

八幡浜ちゃんぽん記念日。
愛媛県八幡浜市が2014(平成26)年に制定。市民のソウルフードである「八幡浜ちゃんぽん」で、まちを元気にすることが目的。愛媛県八幡浜市では、商工観光課にちゃんぽん係長を配置したり、「八幡浜ちゃんぽん振興条例(平成26年9月24日条例第64号)」を設ける等、その知名度向上に取組んでいる。日付は、四国の最も西に位置する佐田岬半島(日本列島で最も細長い半島としても知られる)の付け根に位置し、共に、文明開化期(明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象)をリードした、旧愛媛県八幡浜市と旧愛媛県西宇和郡保内町とが合併した2005(平成17)年3月28日から。「八幡浜ちゃんぽん」は、鶏ガラ・鰹・昆布等でダシを取った黄金色のスープで、あっさりとした風味が特徴。魚のまち八幡浜らしく、特産品の蒲鉾やじゃこ天等の水産練製品が具材として使われている。鳥ガラや煮干でダシを取ったアッサリとしたスープに、野菜や豚肉がたっぷり用いられるのが通例で、麺は太めである。2006(平成18)年度から、八幡浜商工会議所青年部が中心となって振興に取組み、ガイドブック『八幡浜ちゃんぽんバイブル』を発刊している。また、市内のスーパー等で中華麺を購入して、自宅で作っている人も多く、ちゃんぽんは、市民の身近にある素朴な食べ物として、各家庭に当たり前のように浸透している。さらに、レトルトの製品も数多い。長崎市発祥のちゃんぽん「長崎ちゃんぽん」は、中国東南部に位置する福建省の福建料理をベースとしている。明治時代中期、長崎市に現存する中華料理店『四海樓』の初代店主陳平順が、当時日本に訪れていた大勢の中国人(当時は清国人)留学生に、安くて栄養価の高い食事を食べさせる為に考案したとされる。一方で異説もあり、明治初年には、既に長崎人の本吉某が長崎市丸山で、支那饂飩をちゃんぽんの名で売り出していたともいう。豚肉や、ネギ等の野菜、蒲鉾等の魚肉生産品といった十数種の具材をラードで炒め、豚骨と鶏がらでとったスープで味を調える。そこに、ちゃんぽん用の麺を入れて煮立るが、これが他の中華麺類との大きな違いとなっている。「長崎ちゃんぽん」に影響されたと思われる麺料理は日本全国に存在し、「八幡浜ちゃんぽん」もその1つと言える。因みに、「混ぜること」を意味する「ちゃんぽん」は、江戸時代には既に存在した表現で、遊所(遊廓等)での遊びについて書かれたものが殆どで、粋(いき)を理想とし、話を楽しむためだけでなく、実用的な遊び方指南や、一種のガイド本として読まれた洒落本での用例が残っている。異なる種類の酒を一時に飲むことや、医薬品、その他の薬物を数種類同時に服用することの形容等によく用いられる語である。朝鮮語の「チャンポンハダ(ちゃんぽんする)」にも、同様の意味がある。
酵水素328選の日。
東京都渋谷区渋谷に所在し、ヘルスケアセールス事業、ヘルスマーケティング事業等を行なう企業、ジェイフロンティア株式会社が制定。ジェイフロンティア株式会社の「酵水素328選」は、328種類の原材料を使用した、植物発酵エキスを使って作られた栄養機能食品。多くの人に「酵水素328選」を知ってもらい、健康的な体作りの一助としてもらうことが目的。日付は、商品名の「酵水素328選」から、3月28日としたもの。「酵水素328選」の発酵期間は3年間。化学物質による追熟や余計な水分を足さず、熱に弱い酵素を壊さないよう、加熱もしていない。丁寧に時間をかけて熟成させることで、植物の力をそのまま引出している。その結果、質の高い栄養素をその一粒、一滴に凝縮することに成功した。ダイエットや、不規則な生活を続けている人を体の内側から応援したい。「酵水素328選」シリーズには、そんな強い気持ちが込められている。生サプリメントを始め、ドリンク、スムージー、シェイク等、数多くの商品が用意されている。
邂逅忌。
作家、椎名麟三の1973(昭和48)年の忌日。椎名麟三の代表作となる長編小説『邂逅』から、邂逅忌と呼ばれる。この日には、椎名麟三を偲ぶ会主催の追悼会が行なわれる。椎名麟三は、第二次世界大戦前に日本共産党に入党したが、後に転向している。1950(昭和25)年にキリスト教へ入信し、その後はキリスト教作家として活動する。なお、兵庫県神戸市長田区にある山陽電気鉄道本社前に文学碑がある。椎名麟三が、かつて山陽電気鉄道に車掌として勤めていたこと、また、その経験を生かし、長編小説『美しい女』を執筆したことによる。 
宗因忌。
江戸前期の連歌師・俳人、西山宗因の1682(天和2)年の忌日(旧暦)。西山宗因は1647(正保4)年に大坂天満宮(現在の大阪市北区天神橋に所在する、菅原道真を祭神とする天満宮、大阪天満宮)連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、俳諧に関する活動も行ない、延宝年間(1673年から1681年まで)の頃に談林派俳諧の第一人者とされた。なお、談林派は、西山宗因らを中心にして栄えた俳諧の一派である。浮世草子作者、人形浄瑠璃作者で俳諧師、井原西鶴の師としても知られ、俳壇の中心的存在として活躍した。
鑑三忌。
明治時代から大正時代のキリスト教指導者で評論家、内村鑑三の1930(昭和5)年の忌日。内村鑑三は、福音主義(イエス・キリストの伝えた福音[教え]にのみ救済の根拠があるとする思想)信仰と、時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。1891(明治24)年に信仰上の立場から、政府の教育方針を示す文書「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」に対する敬礼を拒否して、第一高等中学校(現在の東京大学教養学部、及び、千葉大学医学部と薬学部の前身)講師の職を追われて以来、著述に専念した。雑誌『聖書之研究』を創刊し、聖書に基づく無教会主義を唱えた。英文による『余は如何にして基督信徒となりし乎(How I become a Christian)』は数ヶ国語に翻訳された。「教会の無い者の教会」として内村鑑三が説いた無教会主義は、聖書とイエス・キリストの贖罪(イエス・キリストの生と死と復活を通じての、神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復)という信仰のみを中心にしたもので、「二つのJ」のイエス・キリスト(Jesus Christ)と日本(Japan)を愛した、内村鑑三の強き独立心と一体となって生み出された、福音的キリスト教の日本的展開ともいうべきものである。その言動は、国家の不義を問う予言者として、時代人の心に大きな影響を与え、都市知識人だけではなく、農村にも内村鑑三の弟子を生み育てた。
京都裏千家利休忌。
堺の豪商で、茶人の武野紹鴎らに茶の湯を学び、茶道を大成した戦国時代から安土桃山時代にかけての商人で茶人、千利休は1591(天正19)年2月28日(旧暦)に自刃した。裏千家家元では毎年3月28日、全国の社中参列の下、茶室「咄々斎」で、茶家最大の行事である利休忌が開催される。なお、表千家家元では、新暦3月27日に利休忌の行事が催されている。因みに、裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家の表千家(不審菴)に対し、今日庵(こんにちあん)が、通りからみて裏にある意から、とされる。宗家は、現在の京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室である今日庵は、裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の名の由来は、千利休の孫に当たり、千家中興の祖とされる千宗旦が亭主を務めた茶席に、遅れた清巌宗渭(書画に優れ、茶道に通じた臨済宗の僧で、千宗旦参禅の師)に、所用があるとして留守にした千宗旦が、明日の来席を請うた際に残した清巌宗渭の「懈怠比丘不期明日」の書付けから、とされる。千宗旦は、弟子に「もし来られたら明日もう一度来て頂くよう申上げて」と言残していた。間もなくやって来た清巌宗渭は、千宗旦の伝言を聞き、茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日(遅刻するような怠け者の僧である私は、明日のことはお約束しかねます」と書残して帰った。帰宅して、これを見た千宗旦は、一寸先は解らぬ人生に明日の約束を求めた自分を反省し、直ちに清巌宗渭が住職を務めていた大徳寺(現在の京都市北区紫野大徳寺町にある寺院)を訪ね、「今日今日といいてその日を暮らしぬる、明日のいのちはとにもかくにも(明日の命も分からないのに、大切な今日を疎かに暮らしているのは愚かなことでした)」という反省と、清巌宗渭の教訓への感謝を込めて、この歌を呈した。その「大切な今日」が、今日庵という茶室の名の由来、という訳である。