3月25日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

ドラマチック・デー。 
1956(昭和31)年3月25日、後楽園球場(東京都文京区後楽に所在した、日本野球のメッカとしての不変の地位を得た野球場であるが、施設の老朽化により、球場としての役割を、隣接地に建設された日本初の屋根付き球場、東京ドームに引継ぎ、1987[昭和62]年に閉鎖された)で行なわれたプロ野球の読売ジャイアンツ(読売巨人軍)対中日ドラゴンズ戦で、代打で起用された読売ジャイアンツ(読売巨人軍)の樋笠一夫が、日本プロ野球史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ったことに由来する。ホームイン後、桶笠一夫はナインから胴上げされている。スコアは4対3で、3点差をひっくり返した、いわゆる「釣り銭無し」のアーチは、どんな修飾語も付けようがない程のドラマチックなバッティングであった。1920(大正9)年生まれの樋笠一夫は、旧制香川県立高松中学校(現在の香川県立高松高等学校の前身)時代に出場した1934(昭和9)年の第20回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身)ではベスト8まで進出するが、準々決勝で川上哲治(現役時代には、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2,000安打を達成し、監督としても、王貞治や長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツ[読売巨人軍]の黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」[9年連続セ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝]を達成する等、多大なる功績を残している)擁する熊本県立工業学校(現在の熊本県立熊本工業高等学校の前身)に敗れた。中学卒業後は陸軍騎兵学校へ進んで、職業軍人の道を歩み、陸軍大尉まで昇進した。第二次世界大戦後、社会人野球でプレーした後、1950(昭和25)年に広島カープ(現在の広島東洋カープ)へ、30歳で入団する。新人ながらクリーンナップを打ち、打率こそ.219ながら、21本塁打、72打点でチーム二冠王となった。当初は1年契約であったが、球団は樋笠一夫の活躍を評価して、契約更改第1号に指名するが、樋笠一夫は広島カープを退団し、地元に戻って、香川県坂出市で友人と「樋笠しょうゆ製造業」の経営を始める。しかし、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)から熱心な勧誘を受け、1951(昭和26)年6月に入団する。この時、広島で地元ファンから、「四番打者が広島を見捨てるのか」という反発が起きたことから、読売ジャイアンツ(読売巨人軍)は見返りとして、石本秀一(プロアマを通じ、日本野球史を代表する指導者の1人で、広島カープの初代監督に就任し、樋笠一夫を広島カープに勧誘した)の秘蔵っ子であった山川武範(1940[昭和15]年から活躍していた三塁手で、広島カープでは、球団初のサイクルヒットを達成した)を広島カープにトレードした。当時の読売ジャイアンツ(読売巨人軍)外野陣には、青田昇、与那嶺要、南村侑広らがいて充実していたことから、樋笠一夫は控えに回ることが多く、やがて代打の切り札として存在感を高めていく。1952(昭和27)年には、代打として31回起用され、26打数9安打の打率.346で、リーグトップの代打成功率を収めている。それでも、1953(昭和28)年に、川上哲治と並ぶ強打者、青田昇が大洋松竹ロビンス(後の大洋ホエールズで、現在の横浜DeNAベイスターズの前身球団となる)に移ると、早稲田大学から入団した新人選手、岩本尭とレギュラーを争って、外野手として100試合近くの出場を果たし、1953(昭和28)年は12本、1954(昭和29)年は11本と、2年連続で二桁本塁打を記録した。その後は代打での出場が主となるが、1956(昭和31)年3月には、中日ドラゴンズの杉下茂から、日本プロ野球史上初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、さらに、4月には、大阪タイガース(現在の阪神タイガースの前身)の小山正明から、シーズン2本目となる代打サヨナラ本塁打を打っている。樋笠一夫は1957(昭和32)年に引退し、近鉄バファロー(後の大阪近鉄バファローズ)一軍打撃コーチ(1960[昭和35]年 - 1961[昭和36]年)等を務めた。その後は球界を離れ、広告代理店の第一広告社(現在の外資系広告代理店、I&S BBDOの前身の1つ)に入社。更生部長等を歴任し、1975(昭和50)年に定年退職するまで勤務する。得意先に出向くと必ず「あのホームラン」の話が出て、商談がスムーズに進んだという。因みに、2001(平成13)年9月26日には、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打が生まれている。2005(平成17)年3月末に解散した大阪近鉄バファローズは、2001(平成13)年9月26日にチーム135試合目、本拠地大阪ドームでの同年度最終戦となる対オリックス・ブルーウェーブ(現在のオリックス・バファローズの直接の前身)戦を迎えた。9回表終了時点でのスコアは5対2と、3点リードされていた。9回裏、大阪近鉄バファローズは、無死満塁の大チャンスを迎え、北川博敏を代打に送る。4球目を打った北川博敏の打球は、バックスクリーン左横に飛込む、プロ野球史上初となる「釣銭無しの代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」となった。いわゆる「釣り銭無し」の代打逆転サヨナラ満塁本塁打は、樋笠一夫以来のものでもあった。なお、北川博敏は、この前の大阪近鉄バファローズの試合であった、9月24日の対西武ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)戦でも代打として出場し、松坂大輔から本塁打を放って、チームの勝利に貢献している。つまり、北川博敏にとって、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打は、2打席連続本塁打でもあった。 
ご自愛の日。
「最愛の自分に最高の運命を」と、ご自愛ライフスタイルを提唱する団体、「ご自愛学会」が2017(平成29)年に制定。「自分を大切にすること = ご自愛の大切さ」を、さらに多くの人に広めることが目的。日付は、自分の愛し方の専門家で、ご自愛ライフスタイル研究室を主宰するご自愛ライフスタイルアドバイザー、小原綾子の誕生日から。ご自愛ライフスタイル研究室は、「自分」を愛し始めると、「世界が自分の思い通りになる」ということを研究・実験・実感するための研究室である。小原綾子は、ご自愛ライフスタイルアドバイザーとして、イベントやセミナーを開催している他、単行本も出版している。 
笑顔表情筋の日。
東京都品川区東品川に所在する、シワやたるみを改善して、笑顔が素敵になる笑顔表情筋トレーニングを指導する団体、笑顔表情筋®協会が制定。「笑顔が変わると人生が変わる」をモットーとする笑顔表情筋®協会では、表情筋・歯科衛生士・脳科学を組合わせた笑顔表情筋メソッドで、日本中に笑顔美人を増やす活動を行なっている。誰もがニコニコと笑顔で、自分の笑顔に自信を持って、健康な人生を楽しんでもらうことが目的。日付は、3月25日の「3」と「25」で、「みんな(3)でニコ(25)ニコ」の語呂合わせから。集客や婚活、起業、第⼀印象には、笑顔が必須と言える。笑顔表情筋を鍛えることで、人前で笑顔で話せる、第⼀印象が良くなる、写真に笑顔で写れる、コミュニケーション力がアップする、ポジティブ思考になれる等、自分に自信が持てるようになる。笑顔は、顔の表情筋が動いて作っている。それは、脳からの指令で、実は普通に生活していると、約20%から約30%程度しか使われていない。いつも笑顔にする時に使う表情筋も決まっていて、脳も表情筋も記憶している。約70%から約80%程度の使われていない表情筋を鍛えることで、顔の表情筋が緩んで自然な笑顔になる。笑顔表情筋®協会では、オンラインに対応した笑顔表情筋レッスンや体験会、講演会、企業向けセミナー等を実施している。また、笑顔表情筋インストラクターになるための養成講座も開いている。