3月24日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

世界結核デー(World Tuberculosis Day、World TB Day)。
1882(明治15)年3月24日、ドイツの細菌学者、ロベルト・コッホが結核菌を発見したことを記念し、結核根絶への誓いを新たにするために、1997(平成9)年の世界保健総会で世界保健機関(WHO)が制定。この日の前後に世界中で、結核撲滅に向けたさまざまなイベントが行なわれている。フランスの生化学者・細菌学者、ルイ・パスツールと共に、「近代細菌学の開祖」とされ、炭疽菌(感染すると死亡率が高い、ヒツジやヤギ等の家畜や野生動物の感染症であるが、ヒトに感染する人獣共通感染症でもある炭疽症の病原体となる細菌)、結核菌、コレラ菌(急性の激しい下痢を伴なう腸管感染症、コレラの原因となる、コレラ毒素を産生する細菌)の発見者であるロベルト・コッホは、純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立した。微生物学や植物学の分野で、微生物や細胞を培養するために用いられる寒天培地や、ペトリ皿(シャーレとも呼ばれる、微生物の培養実験で用いられるガラス製の平皿)は、ロベルト・コッホの研究室で発明され、その後、今日に至るまで使い続けられている。ロベルト・コッホは結核菌を発見し、ヒトにおいて、炭疽菌と同様に病原性の証明を行なって、論文『結核の病因論』を著わし、ヒトにおいても細菌が病原体であることを証明した。1905(明治38)年にロベルト・コッホは、結核に関する研究の業績より、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。「日本の細菌学の父」として知られ、医学の発展に貢献した医学者・細菌学者、北里柴三郎は、ロベルト・コッホの弟子の1人で、1908(明治41)年には、北里柴三郎に招かれてロベルト・コッホが来日している。1892(明治25)年に設立された細菌学の研究所、北里研究所(現在は学校法人北里研究所)には、北里柴三郎によってコッホ祠が建立された。北里柴三郎の死後は、その弟子により北里祠も建てられ、後に合祀されて、コッホ・北里神社となっている。結核菌は、ヒトの病原菌としては、コッホの原則(感染症の病原体を特定する際の指針の1つ)に基づいて病原性(細菌やウイルス等の病原体が、他の生物に感染して宿主に感染症を起こす性質・能力のこと)が証明された最初のものである。消毒薬や乾燥に対して、高い抵抗性を有する。保菌者の咳やくしゃみ等の飛沫、又は、それが乾燥したものを含むほこり等から空気感染して、肺胞マクロファージ(白血球の1種)の細胞内に感染し、肺結核や結核性リンパ節炎、腸結核等の各種の結核の原因となる。結核は世界において、後天性免疫不全症候群(エイズ[AIDS]、ヒト免疫不全ウイルス[HIV]が免疫細胞に感染し、免疫細胞を破壊して後天的に免疫不全を起こす免疫不全症)の次に死者の多い感染症であり、結核による死者の約95%以上は低所得国や中所得国である。日本では、明治初期まで肺結核は労咳(ろうがい)と呼ばれていた。かつて日本では、結核は国民病・亡国病とまで言われる程の猛威を揮った。第二次世界大戦後、「結核予防法(昭和26年3月31日法律第96号)」が制定され、微生物が産生し、他の微生物等、生体細胞の増殖や機能を阻害する物質である抗生物質(ペニシリン)を用いた化学療法の普及等によって激減した。しかし、他の先進工業国に比べて、感染率と死亡率は依然高い状態である。これは、日本が諸外国と比べて湿気が多いという、結核になり易い気候条件があることが最大の理由である。今後は更なる高齢化により、患者数が再び増加に転じる恐れが強まっており、これを食い止める為に厚生労働省や結核予防会等が、結核予防の啓発活動を進めている。厚生労働省は、9月24日から9月30日までを「結核予防週間」と定めており、地方自治体や、東京都千代田区神田三崎町に本部を置く公益財団法人、結核予防会を始めとする関係団体の協力を得て、結核予防に関する普及啓発等を行なっている。世界的にみると、結核は低所得国や中所得国を中心に、特に貧困層等、社会的弱者と呼ばれている人々の中で蔓延している。結核への偏見や差別、疎外、治療を阻む壁を取払い、結核制圧への取組みを進めることが求められている。結核、特に肺結核は労咳と呼ばれ、古くから日本に多く見られる病気の1つであった。特に、明治期には国民病と言われるまでに罹患者の多い疾病であったため、近代以降の文化史に強い影響を与えている。当時は、殆ど打つ手のない死病であり、この病によって若くして命を落とす人が少なくなかった。結核患者は熱のため頬が赤く、目が大きくうるみ、痩せて肌は白くなるため、悲劇性や運命の非情さ、世の無常、或いは悲壮さを伴なう美的感覚を感じさせる。また、喀血症状が古くからの「血を吐くまで(恋や悩みに)苦しむ」という言回しに重ね合わされて捉えられたこと等から、小説や映画の中では、薄倖の才子佳人の病気として描かれることが多かった。時代劇においては、用心棒等を務める剣豪に、死期を悟った凄みを纏わせる、演出上の設定としても使われた。  
著しい人権侵害に関する真実に対する権利と犠牲者の尊厳のための国際人権デー
(International Day for the Right to the Truth Concerning Gross Human Rights Violations and for the Dignity of Victims)。
2010(平成22)年12月の国際連合総会で制定された、国際デーの1つ。人権侵害を非難したエルサルバドル(中央アメリカ中部に位置する国)のオスカル・ロメロ大司教が暗殺されたことに由来する記念日で、組織的な人権侵害の被害者の死後の名声を尊重し、真実と正義の権利の重要性を促進すること、全ての人の人権を促進し、保護するための闘いに献身し、命を失った人々に敬意を表わすこと、オスカル・ロメロ大司教の行なった重要な取組みと、その価値について認識することを目的としている。カトリック教会の聖人、聖オスカル・ロメロは、エルサルバドルのカトリック司祭で、サンサルバドル(エルサルバドルの首都)教区の大司教(聖職者としては司教と同様の位階ながらも、他の司教を超える大きな権限を享有した)であった。大多数の人権侵害を証言しながら貧困層の人々の側に立ち、エルサルバドル政府と社会主義勢力であるファラブンド・マルティ民族解放戦線が激突した内戦、エルサルバドル内戦の犠牲者を代表して、世界に訴える務めを担うことを選んだ。しかし、その取組みは政治的行動主義であるとして、カトリック教会の上層部とエルサルバドル政府から非難を受けた。オスカル・ロメロ大司教は1980(昭和55)年3月24日、ミサの司式の最中に、狙撃を受けて暗殺された。その死は、エルサルバドルにおける人権改革を求める、国際的な抗議の声を呼起こすことになった。1997(平成9)年には、オスカル・ロメロ大司教の列福(キリスト教、カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人に次ぐ福者の地位に上げられること)・列聖(キリスト教で聖人崇敬を行なう教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位に揚げること)調査が開始され、第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、オスカル・ロメロ大司教を神の僕(福者・聖人に至る最初の段階)とした。公式なものではないが、アメリカ州とエルサルバドルの守護聖人と、人々から見做されるようになった。オスカル・ロメロ大司教は、聖公会(イングランド国教会の系統に属する教派)等、カトリック以外のキリスト教の共通信仰の教派からも敬愛されている。