3月24日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4日曜日 旧暦  2月15日、仏滅(丁亥)、月齢 13.7  
グレゴリオ暦で年始から84日目、年末まであと282日。
誕生花 カリフォルニアポピー・カタクリ・カラマツ・ハナビシソウ。

桜田門外の変。
1860(安政7)年3月24日、江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関に所在)で、常陸国水戸藩からの脱藩浪士17名と薩摩国/大隅国薩摩藩の脱藩浪士1名が、近江国彦根藩の行列を襲撃し、彦根藩第15代藩主で江戸幕府大老の井伊直弼を暗殺した。江戸幕府老中阿部正弘や前水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬らが主導した雄藩協調体制を否定、幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持しつつ、朝廷からの政治介入をも阻止するという、江戸幕府大老井伊直弼の専制政策路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、徳川御三家の水戸徳川家と、譜代大名筆頭の井伊家が反目、長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜し、文久期(1861年から1864年までの間)以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここから僅か約7年と7ヶ月後の1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜によって大政奉還(政権返上を第122代天皇、明治天皇に奏上し、翌10月15日に天皇が奏上を勅許した政治的事件)が成され、同年の江戸開城により急転直下で成る明治維新への、直接的ではっきりした起点が、この桜田門外の変であった。当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理された後に病死した」となっている。これは、譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊直弼自身によって既に重い処分を受けていた水戸藩へ、さらに制裁(御家断絶等)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、江戸幕府老中安藤信正ら残された江戸幕府首脳による破格の配慮であった。井伊家の菩提寺、豪徳寺(現在の東京都世田谷区豪徳寺に所在)にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。これによって井伊直弼の子、愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取潰しを免れた。井伊直弼の死を秘匿するため、存命を装って井伊直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届けが江戸幕府へ提出され、将軍家(徳川家茂)からは井伊直弼への見舞品として、高価な生薬とされる御種人蔘(朝鮮人蔘)等が大量に彦根藩藩邸へ届けられている。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には第10代藩主徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士達の憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けた。その後約2ヶ月間、江戸幕府側は井伊直弼の死を公表しなかった。しかし、襲撃後の現場には、後続の大名駕籠が続々と通り掛かり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、江戸幕府大老井伊直弼暗殺は、直ちに江戸市中へ知れ渡った。斬り合いは既に終わったにも係わらず、天気の回復した事変当日の午後から夕方には、見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れを成した。井伊直弼の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭」をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」等と市井に揶揄された。また、首を取られたにも係わらず、病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で枕いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」「人参で首をつげとの御沙汰かな」等の川柳も相次いだ。事件直後の市中の状況を読上げたちょぼくれ(大道芸の一種で、門口に立ち行ない金品を受取る形式の芸能の1つ)やあほだら経(「仏説あほだら経」という歌い出しの戯れ文句で始まる軽快な早間[軽快な]口調の俗謡)も採集されている。桜田門外の変の襲撃者らが、江戸幕府幕吏から大方処分されるのを見届けた薩摩藩側では、2年後の1862(文久2)年3月16日に島津久光が藩兵を率いて鹿児島城下を発し、同年4月13日入京した。さらに島津久光は、勅使(天皇が出す使者)の公家、大原重徳を擁して同年6月7日薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求した。これを受けて江戸幕府は、御三卿の一橋慶喜を将軍後見職、越前国福井藩藩主松平慶永を政事総裁職へ任命、松平慶永の主導で井伊直弼政権の清算を図った(文久の改革)。末期の井伊直弼政権を支え、井伊直弼の死後に幕閣を纏めた江戸幕府老中安藤信正は、同年初めの坂下門外の変では負傷で済んでいたが、この改革で久世広周と共に老中を罷免された。また、彦根藩は、幕府より石高を35万石から25万石に減らされ、藩主の京都守護の家職を剥奪され、陸奥国会津藩藩主松平容保が代わりに京都守護職へ充てられた。これに先立って、彦根藩は井伊直弼の腹心であった彦根藩士の長野主膳義言と宇津木六之丞景福を、切腹より重い重罰であった斬首・打捨てに処したが、結局のところ減封を免れることはできなかった。1866(慶応2)年6月7日、第二次長州征伐で、彦根藩士510名は赤備えを着て江戸幕府方で出陣した。彦根藩士達は、鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり、長州方の遊撃隊から狙撃されて大敗を喫した。1868(慶応4)年1月3日から6日にかけての鳥羽・伏見の戦いでは譜代大名筆頭として、藩主井伊直憲率いる彦根藩は幕府軍の先鋒を勤めていたが、翻って新政府軍に付いた。彦根藩は、その後も薩摩藩兵と共に東寺や大津を守備する等、倒幕の姿勢を示した。桜田門外の変で敵対した両藩の城下町である茨城県水戸市と滋賀県彦根市が和解して親善都市提携を結んだのは、事件発生から約109年後の1968(昭和43)年10月29日であった。水戸市から彦根市へは偕楽園の梅、彦根市から水戸市へは彦根城堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、井伊直弼の曾孫に当たる井伊家の当主で、殿様市長として知られた井伊直愛であった。水戸市と彦根市を仲介したのは福井県敦賀市で、この敦賀は、水戸藩の勤王攘夷派である水戸天狗党が彦根藩士から処刑された土地であった。1864(元治元)年に水戸天狗党は、関東地方東部、茨城県つくば市北端にある標高877mの山、筑波山で挙兵し、京都を目標として約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。しかし、追討軍に妨げられ、北上して越前国(現在の福井県北東部)に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだ。敦賀で追討軍に包囲された水戸天狗党は、投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。この時捕らえられた水戸天狗党員828名の内、352名が処刑された。その後の1974(昭和49)年4月13日、水戸市と香川県高松市が、今度は彦根市の仲介で親善都市を提携した。徳川御三家水戸徳川家の支系で、讃岐国高松藩の藩主家である高松松平家は、水戸徳川家(水戸藩)からの御連枝(御三家からさらに分家して立藩した親藩大名家)で、江戸城での伺候席(江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席)は彦根井伊家や会津松平家と共に、代々の溜詰(将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席)であった。幕末の高松松平家は、宗家である水戸藩が尊皇に傾き、一方で、当時の高松藩主、松平頼聰の正室弥千代が井伊直弼の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に付いたため、朝敵となった。