3月21日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3木曜日 旧暦  2月12日、先勝(甲申)、月齢 10.7 
グレゴリオ暦で年始から81日目、年末まであと285日。
誕生花 マダガスカルジャスミン・サクララン・テンモンソウ・マンサク。

カラー映画の日。
1951(昭和26)年3月21日、国産初の長編総天然色(カラー)映画『カルメン故郷に帰る』が封切られた。映画を監督したのは、日本映画の黄金期を築いた1人で、抒情的な作風で知られ、数多くの名作・話題作を生み出した映画監督の木下恵介、主演は、第二次世界大戦戦前・戦後を通じて、日本映画界で活躍した女優の1人である高峰秀子。内容は、ストリッパーの主人公が、成功したと偽って故郷の信州に帰り、さまざまな騒動を巻起すという喜劇であった。ほぼ全編を、長野県中東部と群馬県中西部との境にある、世界でも有数の活火山として知られる浅間山の山麓でロケ撮影しており、第二次世界大戦後の自由でどことなく軽薄な風潮と、それに対する賛否両論の世論を風刺した軽快な喜劇で、新しい時代の映画の創作意欲が随所に見て取れる作品である。また、父娘、姉妹、夫婦の情愛等が非常に丁寧に描かれている。「映像に色を付ける」という試みは、20世紀初頭のサイレント映画(音声・音響、特に俳優の語るセリフが入っていない映画)時代の初期から試みられており、当時は1コマ1コマ手作業で着色されていた。その後、カラーフィルム自体は1916(大正5)年に2原色式テクニカラー(被写体をプリズム[ガラス等でできた三角形の角柱]で分解し、赤緑それぞれのフィルターを通した映像を1本のモノクロフィルムに交互に記録するという方式)が開発されるが、青や黄色が表現できない等、色彩再現力が不完全であった。その後、1932(昭和7)年には、それらの欠点を克服した3原色式の改良版テクニカラーが開発された。日本初の短編カラー映画は、1937(昭和12)年に作られた『千人針』である。『千人針』は、主に第二次世界大戦前に活躍した映画監督、三枝源次郎が監督を務めた作品で、日本国内ではフィルムは戦災等で消失し、存在を知る者はごく僅かであった。満州(現在の中国東北部)に侵攻したソビエト連邦軍によって接収された『千人針』のフィルムが、2002(平成14)年にロシアで発見され、日本放送協会(NHK)のドキュメンタリー番組で紹介されて、広く知られる様になった。但し、かなりの部分が欠損している。なお、1896(明治29)年11月25日から11月29日にかけて、兵庫県神戸市にある関西地区在住の外国人の相互交流を目的とする会員制社交クラブ、神戸外国倶楽部で、日本初となる映画の一般公開があったことを記念し、それに近く区切りのよい12月1日は、1956(昭和31)年に映画産業の振興を目的とする一般社団法人、映画産業団体連合会が制定した「映画の日」とされている。第二次世界大戦後、アメリカから輸入されたカラー映画に刺激され、日本でも、本格的なカラー映画を製作しようとする機運が高まっていた。日本最初のカラー映画としては、1937(昭和12)年の『千人針』があったが、フィルムは国産ではなかった。1931(昭和6)年に、日本で初めての本格的トーキー映画(映像と音声が同期した映画)『マダムと女房』を上映した、映画、演劇の制作、興行、配給を手掛ける会社、松竹株式会社では、トーキーに続く「日本初」を目指し、1934(昭和9)年に写真フィルムの国産化を目指すために設立された富士写真フイルム株式会社(現在の精密化学メーカー、富士フイルム株式会社)と協力して、カラー映画を製作することを決定した。しかし、カラー映画には、技術やコストの面で問題が多く、松竹株式会社と富士フイルム株式会社は、万一『カルメン故郷に帰る』がカラー映画として満足のゆく出来映えにならなかった場合は、カラー撮影そのものがなかったことにしてフィルムを破棄し、従前のモノクロ映画として公開することを内約していた。このため、『カルメン故郷に帰る』は、まずカラーで撮影を行ない、それが終わってから、改めてモノクロの撮影を行なうという、二度手間を掛けて撮り上げた作品となった。映画産業は、アメリカでは「不況に強い」産業となっている。また、ビデオやDVDの普及、ファイル共有ソフトの隆盛が「映画産業を破滅に追込む」といった考えは「誤った思い込み」であり、現実では、観客動員数は減るどころか、逆に増えているという。こうした観客動員数の増加については、「大画面で見た方が楽しめる大作を作ることによって、観客の足を映画館へ運ばせている」との指摘がある。しかしながら、移民の増加によって人口が増え続けているアメリカで観客動員数が増えているからと言って、それが直ちに映画産業の好調を示すものではないことに留意する必要がある。映画産業も他の産業同様、全体として需給のバランスが崩れ始めれば衰退が始まる。需給バランスの客観的な指標としては、観客動員数や総興行収入や全国のスクリーン数ではなく、国民1人当たりの年間映画館利用回数を用いるべき、という指摘もある。日本における自主映画は、商業映画ではない種類の映画を指す。作品権利等が制作者(主に監督)にあるので、自主映画と言われる。自主映画の多くは、大学や社会人の同好の士による映画サークルや社会人団体、映像系学校の学生等、アマチュアのスタッフ・キャストによって制作される。制作団体としては、大学や同人の映画サークルを筆頭に、西東京を拠点とする「映創会」(1969[昭和44]年に発足され、現在も続く自主映画サークル)等が知られている。また、最初は自主映画の世界で名を知られ、後にプロとして成功した映画監督や映像作家も少なくない。さらに、自主映画で実力や個性が評価され、テレビドラマや劇場映画でも活躍するようになった俳優も存在する。自主映画出身の映画監督や俳優の中には、プロとして活躍しながら、自分が作りたい映画を作るため自主映画制作に取組む者もいる。近年は、フィルムと比べ、より手軽で安価なデジタルビデオの普及や、デジタル映像編集技術の発達から、個人によるデジタル制作も増えてきており、劇場スクリーンでの鑑賞にも十分耐えられる高画質のビデオカメラを、学生やアマチュアが使いこなして映像を創り出す時代になっている。デジタルリマスターとは、過去の映画や音楽等を、最新のデジタル(情報を0と1の数字の組合わせ、 或いは、オンとオフで扱う方式で、数値、文字、音声、画像等、あらゆる物理的な量や状態はデジタルで表現できる)技術を用いて、再度マスタリング(原盤製作)を行なう(リマスタリング)作業(及び、作業されたもの)のことである。映像作品等においては、フィルム・テープの保存状態により、キズや経年変化による色あせ等の画質劣化を補うために、素材をデジタル化する作業を指して呼ぶことがある。フィルム撮影時代の映像作品や、アナログビデオで収録された作品等においても行なわれた作品は、販促力の高い旧作映像のDVD-BOX等を販売する際の収録作業に用いられる。また、銀塩フィルム(画像の記録媒体がフィルム[カメラから得られた光の情報を記録する感光材料]であり、銀の塩化物である銀塩を感光剤に使用しているもの)の映画カメラの代わりに、デジタル記録方式のビデオカメラを撮影に使って録画・録音し、さらに、映像編集から配給・上映・映写機に至るまでの一連のプロセスに、デジタルデータを使用する映画、デジタルシネマには、解像度が低いという大きな欠点があった。しかし、標準テレビ画質を超えるハイビジョンが開発されたことにより、映画に使用できるようになった。コンピュータの発達と共に、映画製作の過程でも、編集作業や特殊効果をコンピュータグラフィックス等の「デジタル技術」を利用するようになり、光学的に撮影した映像フィルムをデジタルのデータに変換して、デジタル処理による動画の加工後、再び銀塩フィルムに戻す、いわゆる「キネコ」の作業が不可欠となっている。それならば、いっそ撮影と上映もデジタル化することで、相互変換の工程を省き、時間とコスト、その他、アナログ(数値を、長さ・回転角・電流等の連続的に変化する物理量で示すこと)が抱えるあらゆる制約を払拭してしまおうというのが、デジタルシネマの基本構想である。