3月19日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3火曜日 旧暦  2月10日、大安(壬午)、月齢  8.7 
グレゴリオ暦で年始から79日目、年末まであと287日。
誕生花 ケシ・クチナシ・シダレザクラ・ベロペロネ。

聖ヨセフの祝日(記憶日)。
聖ヨセフ(ナザレのヨセフ)は、紀元1世紀から2世紀にかけて、キリスト教徒達によって書かれた文書で、『旧約聖書』と並ぶキリスト教の正典、『新約聖書』に登場する聖母マリアの婚約者、夫にしてイエス・キリストの養父で、職業は大工であったという。キリスト教の各教派であるカトリック教会、正教会、東方教会、聖公会、及びルーテル教会で崇敬されている。カトリック教会では、労働者の守護聖人とされ、幾つかの祝日がある。5月1日が労働者としてのヨセフの祝日になっている。大工であったヨセフの像は、しばしば大工道具を手に持っていることがある。ヨーロッパの絵画では、ヨセフは老人として描かれることもある。これは、マリアとの間に肉体関係がなかったことを強調するために、ヨセフを生殖能力のない高齢男性としたものと考えられる。また、養父という立ち位置のため、ヨセフを重要視してしまえば、信仰に多大な支障をきたすおそれがあるため、長い間ヨセフは、キリスト教世界において重要視されず、列聖(キリスト教で聖人崇敬を行なう教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位に上げること)には長い年月を要した。なお、ナザレとは、現在の西アジア・中東に位置するパレスチナに位置するイスラエルの北部にある都市で、住民の多くがアラブ人キリスト教徒であるが、イスラム教徒やユダヤ教徒も多く住む。キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが幼少期から公生涯(イエス・キリストの生涯において、神の子として色々な教えや奇跡を行なった最後の約3年間)に入るまでを過ごした土地であり、イエス・キリストが「ナザレ人」と呼ばれたと『新約聖書』にあることから、極めて重要な場所とされる。ナザレには、西アジア最大のカトリック聖堂『受胎告知教会』が所在し、その壁面に、世界各国から贈られた聖母子像が飾られている。日本からのものは、大正期から昭和期にかけて国内外で活躍した日本画家でカトリック美術家、長谷川路可が下絵を描き、長谷川路可の没後、弟子達によって制作されたモザイク(小片を寄合わせて埋め込んで、絵[図像]や模様を表わす装飾美術の手法で、建築物の床や壁面、或いは工芸品の装飾のために施される)『華の聖母子』である。
カメラ発明記念日。
1839(天保10)年3月19日、フランスの画家で写真家、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって、カメラ(写真機)が発明された。このカメラ(写真機)は、ダゲレオタイプであった。ダゲレオタイプとは、世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真技法が確立するまでの間、最も普及した写真技法である。銀メッキをした銅板等を感光材料として使うため、日本語では銀板写真とも呼ばれる。露光時間を約10分から約20分から、最終的には約1分から約2分にまで抑えることに成功し、肖像写真の撮影も容易なものとなった。ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによるダゲレオタイプは、一般の人々でも制作可能な設備・装置、現実的範囲の撮影所要時間と、撮影した映像の定着保存技術を全て実現させたことで、実用的な写真法の端緒となった。元々の語源であるラテン語(ギリシャ語と並んで西欧の古典語で、古代ローマ帝国の公用語であり、中世から近代の初めに至るまで、カトリック教会を中心とする全ヨーロッパの知識層の、言わば共通の文語として用いられた)では、「camera」は「小さな部屋」を意味し、後に、政治や財政を司る「部屋」(官房[君主の側近が執務した部屋]・国庫[国家を財産権の主体としてとらえた場合の呼称])等と意味が拡大した。英語の「camera」は「暗室」を意味し、ここから転じて、現在の日本語でいうカメラを意味するようになった。カメラの原理は、写真術の発明以前から知られていた。窓のない暗黒の部屋の壁面に小さな穴を空けると、反対側の壁面に外の景色が映し出される。これを応用して、日食の観察を行なったり、絵画の下絵を描く目的に使われた道具が、カメラ・オブスクラ(「暗い部屋」の意味で、カメラ・オブスキュラとも呼ばれる)である。16世紀には、小穴の代わりにレンズを用いて、より鮮明な像が得られるようになり、反射鏡によって箱の上面に像を結ばせるようにした小型のカメラ・オブスクラが作られた。これは、絵画における遠近画法(遠近感を持った表現を行なう手法)の確立に寄与したと言われている。19世紀末までに、記録媒体(情報の記録、伝達、保管等に用いられる物や装置)として写真フィルムが普及し、コンパクトで手軽に写真が撮影できるカメラが大衆化する。1950年代まではイギリスやドイツ、アメリカ合衆国が世界市場を牽引していたが、1970年代以降は、日本製のカメラが世界市場を席巻する。1963(昭和38)年には、露出を自動化したAEカメラ(絞りやシャッタースピードを自動的に制御し、被写体の明度に応じた露光が得られるようにする機能、AE機能を持つカメラ)が現れた。さらに、1977(昭和52)年には、オートフォーカス(AF)機構(カメラの焦点を、センサー・制御系・モーター等を利用して自動的に合わせるシステム)が実用化され、構図を決めてシャッターを押すだけで写真が撮れるのが当たり前の時代になった。2000(平成12)年頃から、撮影した画像を従来の銀塩フィルム(画像の記録媒体がフィルム[カメラから得られた光の情報を記録する感光材料]であり、銀の塩化物である銀塩を感光剤に使用しているもの)による化学反応ではなく、撮像素子(光をデジタル[情報を0と1の数字の組合わせ、 或いは、オンとオフで扱う方式で、数値、文字、音声、画像等、あらゆる物理的な量や状態はデジタルで表現できる]に変換するためのセンサー)で撮影した画像をデジタルデータとして記録するデジタルカメラが一般に登場する。1975(昭和50)年に世界で初めて、アメリカ合衆国に本拠を置く世界最大の写真用品(写真フィルム、印画紙、処理剤)メーカー、イーストマン・コダック社が開発したデジタルカメラは、徐々に勢力を伸ばし、遂には従来のフィルムカメラを駆逐する勢いとなっており、フィルムカメラ関連の事業が縮小していった。2000(平成12)年頃から国内の光学機器メーカーだけでなく、電気機器メーカーが一般向けデジタルカメラ事業に参入し、さらには、台湾や中国、韓国等のメーカーが加わった。その上、カメラ付携帯電話の高機能化も加わって、店頭では販売合戦が展開されている。報道関係やプロカメラマンの間でも、デジタルカメラは普及している。撮影データをネットワーク経由で、一瞬で遠隔地に送ることができ、フィルム現像に掛かる費用がなく、コスト的にも優れたデジタル一眼レフ(撮影レンズを通った光をミラーで反射し、その像をスクリーン[ピント板]に結ばせて、それを見る方式のカメラ)は、現在ではフィルムカメラを駆逐し、報道カメラの中心的な存在となった。現在では、高性能化とデータ編集の容易さが支持されて、質感や仕上がり等を重視する、商用写真や美術写真にも活用範囲が広まっている。なお、1977(昭和52)年に写真用フィルムメーカーの小西六写真工業(現在の電気機器メーカー、コニカミノルタの前身の1つ)が、世界初の自動焦点(オートフォーカス)カメラコニカC35AFを発売したことによる「カメラの日/オートフォーカスカメラの日」は、11月30日とされている。