3月10日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2日曜日 旧暦  2月 1日、友引(癸酉)、月齢 29.2  
グレゴリオ暦で年始から70日目、年末まであと296日。
誕生花 ニレ・スプレーカーネーション・ルピナス。

二十四節気・雑節等
新月。
朔。朔とは、月と太陽の視黄経(天球上における太陽の見掛けの通り道[大円])が等しくなること、また、その時刻のことである。現代的な定義での新月と同義である。地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球に殆ど届かないことと、強い太陽光の影響とで地上からは月が見にくい。黄道と白道が極めて近いか重なる地点(月の交点)で朔となった場合に食である日食が起こる。朔の瞬間を含む日を朔日という。陰暦(太陰太陽暦を含む太陰暦)では、朔日を月の始まる日「1日」とする。月の始まりは「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」と言うため、朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む。新月は、本来は朔の後に初めて見える月のことである。陰暦二日までは月は殆ど見えないので、陰暦三日頃の月(三日月)が新月となる。
桃始めて咲く。
七十二候の1つ(8候)。

東京大空襲の日/東京都平和の日。
1945(昭和20)年3月10日、日本の首都東京で、アメリカ軍のボーイングB-29スーパーフォートレス戦略爆撃機325機による焼夷弾爆撃(「ミーティングハウス2号作戦」)があった。東京大空襲とは、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行なわれた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称である。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって、民間人に大きな被害を与えた。東京の働く姿を描いた作品が多く、反戦や平和をライフテーマとする作家、早乙女勝元は、空襲としては史上最大規模の大量虐殺としている。東京は、1944(昭和19)年11月14日以降に106回もの空襲を受けたが、特に、1945(昭和20)年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日から5月26日の5回は大規模であった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万名以上と著しく多い、1945(昭和20)年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。この3月10日の空襲だけでも、罹災者は100万名を超えた。1942(昭和17)年4月18日、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲が、航空母艦(空母)から発艦した双発中型爆撃機ノースアメリカンB-25ミッチェルを使って行なわれ、東京も初の空襲を受けた。死者は39名であった。ドーリットル空襲は、アメリカ軍が航空母艦(空母)に搭載したアメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって行なった、日本本土に対する初めての空襲で、名称は、空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル陸軍中佐に由来する。ヨークタウン級航空母艦(空母)2隻、『エンタープライズ』と『ホーネット』を基幹とするウィリアム・ハルゼー海軍中将指揮下のアメリカ海軍機動部隊が、太平洋を横断して日本列島(本州)東方海域に到達、『ホーネット』がら航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機であるノースアメリカンB-25ミッチェル16機が発進し、日本に対する第二次世界大戦対米英戦初の日本本土攻撃を実施した。日本本土各地(東京、神奈川県横須賀市に所在した横須賀海軍工廠、横浜、名古屋、神戸、大阪等)が空襲を受け、日本軍に大きな衝撃を与えた。爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部で乗員はパラシュート脱出した。アメリカ軍は、1944(昭和19)年7月9日にサイパンの戦いでサイパン島を、8月1日にテニアンの戦いでテニアン島を、8月10日にグアムの戦いでグアム島を、それぞれ日本軍から奪取し、北西太平洋とフィリピン海の境界に位置するマリアナ諸島を制圧、占領した。そして、テニアン島にハゴイ飛行場(現在のノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在のテニアン国際空港)、グアムにアンダーセン空軍基地、サイパン島にコンロイ・イズリー飛行場(現在のサイパン国際空港)を建設した。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設と、航続距離6,600km(爆弾7,250kg搭載時)を誇るボーイングB-29スーパーフォートレス戦略爆撃機の開発と生産の完了により、ボーイングB-29スーパーフォートレス戦略爆撃機の攻撃圏内に、東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった。1942(昭和17)年には、主燃焼材のナフサ(原油を蒸留分離して得られる粗製ガソリン)にナパーム剤と呼ばれる増粘剤を添加し、ゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾、ナパーム焼夷弾M69が開発された。これは、極めて高温(約900℃から約1,300℃)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊するものであった。アメリカ軍は、日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行なっている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多い、太平洋中央部の洋上に位置するハワイからわざわざ取寄せて。精巧に作り上げられた。これらの実験が、ナパーム焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を始めとする日本本土への無差別爆撃で、効果的被害を与えることに成功した。また、アメリカ軍は、江戸時代の度重なる大火や、1923(大正13)年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が、特に火災被害に遭い易いことを突止めていた。この成果を爆弾の選定や攻撃目標の決定に反映させていた。東京大空襲の被害地域・規模は、大正関東地震(関東大震災)の延焼地域とほぼ一致しているが、これは偶然の一致ではなく、そして大震災時を大幅に上回った。1944(昭和19)年11月、アメリカ軍はマリアナ諸島からの日本本土空襲(東京、名古屋に対する爆撃)を実施する「サン・アントニオ1号作戦」を開始した。その後の1945(昭和20)年2月25日には、「ミーティングハウス1号作戦」が行なわれた。この空襲作戦では、曇天と吹雪が予想された影響もあって、離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、使用弾種の約9割に焼夷弾が導入された。それまでで最多の4発大型爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス229機が出撃し、現在の東京都千代田区鍛冶町に所在する、国鉄(日本国有鉄道、現在の東日本旅客鉄道[JR東日本])神田駅を中心とした東京中心部の広範囲を焼失させ、新戦術が効果的であることが判明した。「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945(昭和20)年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、高度1,600mから2,200m程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が、本格的に導入された初めての空襲であった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。アメリカ軍が「ミーティングハウス2号作戦」の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。人的被害の実数は、死者が約8万名から約10万名、負傷者が約4万名から約11万名と言われる。単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大とされ、両親を失った戦災孤児が大量に発生した。この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区(当時)の3分の1以上の面積に当たる約41平方kmが焼失した。爆撃による火災の煙は、高度約1万5,000mにまで達し、秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。強い北西の季節風によって、火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に、郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。爆撃の際には、火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校等に避難した人も多かった。しかし、火災の規模が常識を遥かに超えるものであったため、至る所で巨大な火災旋風(都市部での広範囲の火災等によって、炎を伴なう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象)が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため、避難をしながらも、これらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われ、窒息によって命を奪われた人々も多かった。