3月10日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

東京大空襲の日/東京都平和の日(続き)。
焼夷弾は、建造物等の目標を焼払うための兵器であるが、この空襲で使われた焼夷弾は、小型の子弾が分離して大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降注ぎ、子どもを背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突刺さって即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり、周囲の人々を巻添えにするという、凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリン等、の油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても、冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川や荒川放水路等は、焼死・凍死・溺死者で川面が溢れた。これら水を求めて、隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに、春日部や古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また、戦意を失わせるため、東京への空襲は続けられた。さらに、全国各地でも空襲が行なわれ、その結果、多くの一般市民が犠牲となった。1945(昭和20)年3月から5月にかけての空襲で、東京市街の約50%を焼失した他、多摩地区(現在の東京都の内、区部[旧東京府東京市]と島嶼部[伊豆諸島・小笠原諸島]を除いた市町村部)の立川、八王子(八王子空襲)等も空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。身元不明の犠牲者の遺骨は、大正関東地震(関東大震災)の犠牲者を祀った東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設「震災記念堂」に合わせて納められた。このため、1951(昭和26)年には、「震災記念堂」から「東京都慰霊堂」に名称が改められた。「東京都慰霊堂」では、毎年3月10日に追悼行事が行なわれている他、隣接する博物館「東京都復興記念館」に、大正関東地震(関東大震災)、及び東京大空襲についての展示がある。この東京大空襲があった日を忘れず、都民1人1人が平和について考える日として、東京都が「東京都平和の日条例(平成2年7月20日条例第90号)」により、「東京都平和の日」を1990(平成2)年に制定した。東京都では、横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族等からの申し出により判明した、1942(昭和17)年から1945(昭和20)年の空襲犠牲者の犠牲者名簿(2019[平成31]年3月時点で81,147名が登載されている)を納めている。日本本土空襲と呼ばれるものは、第二次世界大戦対米英戦中に、連合国軍が日本各都市に対して行なった爆撃で、1944(昭和19)年末頃から本格的な戦略爆撃(戦場から離れた敵国領土や、占領地を攻撃する場合が多く、工場や港、油田等の施設を破壊する「精密爆撃」と、住宅地や商業地を破壊して敵国民の士気を喪失させる「都市爆撃[無差別爆撃]」とに分けられる)爆撃となり、長期間の大規模な無差別爆撃も実施された。アメリカの航空機メーカー、ボーイング(現在は、アメリカで唯一の大型旅客機メーカーであり、ヨーロッパ[欧州連合の内の、フランス、ドイツ、スペイン、オランダの4ヶ国]の航空機メーカー、エアバスと世界市場を二分する、世界最大の航空宇宙機器開発製造会社となっている)が開発した大型戦略爆撃機、ボーイングB-29スーパーフォートレスは、戦場から離れた敵国領土や占領地を攻撃する場合が多く、工場や港、油田等の施設を破壊する「精密爆撃」と、住宅地や商業地を破壊して、敵国民の士気を喪失させる「都市爆撃(無差別爆撃)」とに分けられる爆撃、長距離戦略爆撃を、当初から想定した設計となっており、6,580kmという長大な航続距離を誇る、このボーイングB-29スーパーフォートレスによる日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となる。第二次世界大戦対米英戦の開始直前、アメリカ政府はボーイングに対し、試験飛行もしていないボーイングB-29スーパーフォートレスを250機も発注したが、1941(昭和16)年の真珠湾攻撃で発注数を倍加し、翌1942(昭和17)年2月には、ゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め、1,600機の生産を命じた。しかし、その実現までには、約2年を要してる。連合国軍は、ボーイングB-29スーパーフォートレスによる、九州北部への日本本土空襲を、中国大陸中部にある四川省から実施していたが、11月24日以降は、日本の遥か南海上、東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界の洋上に位置する、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、グアム島から、ほぼ日本本土全域への戦略爆撃を開始している。3月10日の東京大空襲から、焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。 
陸軍記念日。
1906(明治39)年から1945(昭和20)年までの記念日。1905(明治38)年3月10日、大日本帝国とロシア帝国との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部(現在の中国東北部に所在)、及び日本海を主戦場として発生した戦争、日露戦争の陸の決戦とされた奉天会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の中国東北部に所在する瀋陽)を占領して奉天城に入城した。奉天会戦は、日露戦争最後の会戦である。日露双方合わせて約60万(大日本帝国陸軍が約24万、ロシア帝国軍が約36万)に及ぶ将兵が、18日間に亘って激闘を繰広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。奉天を制圧したことにより、会戦の勝利は日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。ロシア側は奉天会戦に敗北したとは言っても、ロシア陸軍(現役兵の兵力は約200万名)は当時、半分の動員しか行なっておらず、まだ健在であり、また、インド洋にはバルチック艦隊(ロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」)が、極東への航海の途上であり、陸海軍共に、額面上の継戦能力はまだ十分にあった。この戦いだけでは日露戦争全体の決着には繋がらず、それには1905(明治38)年5月の日本海海戦の結果を待つことになる。翌年から、この奉天会戦を記念して「陸軍記念日」とした。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって、事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない。
農山漁村女性の日。
女性の社会活動への参加を促し、21世紀の農林水産業、農山漁村の発展に向けて女性の役割を正しく認識し、適正な評価への気運を高め、女性の能力の一層の活用を促進することを目的として、農林水産省の婦人・生活課が1987(昭和62)年度に「農山漁村婦人の日」(1999[平成11]年度から「農山漁村女性の日」)を制定した。女性達は、古くから「女講(おんなこう)」等、自主的な活動をしてきたが、3月上旬は農林漁業の作業が比較的少ない季節で、今も、女性達が学習や話合いをするのに都合のよい時期とされる。10日とした理由は、農山漁村女性の3つの能力とされる「知恵・技・経験」をトータル(10、十 = トゥ)に発揮してほしい、という関係者の願いも込められている。3月を中心として、全国各地で関連イベントが実施されている。農林水産省では、この日を含む1週間を「農山漁村女性の日 WEEK」として、様々なイベントの開催を通じ、農山漁村の女性だけではなく、社会一般に制定趣旨を広め、農山漁村女性の社会参画促進、地位向上を通じた農山漁村や農林水産業の発展を図っている。イベントでは、女性が働き易い環境を整備した経営体等の事例発表や、若者・女性の活躍のためのアイデアの発表等が行なわれる。