3月5日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1火曜日 旧暦  1月25日、先勝(戊辰)、月齢 24.2  
グレゴリオ暦で年始から65日目、年末まであと301日。
誕生花 ヤグルマギク・クンシラン・モモ(白)。

二十四節気・雑節等
啓蟄。
二十四節気の1つ、旧暦二月節気。大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ。暦便覧には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されている。「啓」は「開く」、「蟄」は「虫等が土中に閉じ籠もる」意味であることから、「冬ごもりをしていた虫たちが春の暖かさにつられて土から這い出てくる頃」という意味になる。柳の若芽が芽吹き、蕗の薹(ふきのとう)の花が咲くころとなる。この頃、春雷が鳴ることがあるが、この春雷を「虫出しの雷」という。なお、蕗(ふき)は、キク科フキ属の多年草で、日本原産であり、北海道、本州、四国、九州及び沖縄県に分布し、北は樺太から朝鮮半島や中国大陸でも見られる。山では沢や斜面、河川の中洲や川岸、林の際等で多く見られる。郊外でも河川の土手や用水路の周辺に見られ、水が豊富で風が余り強くない土地を好み繁殖する。早春、葉の伸出より先に花茎が伸び出す。これを蕗の薹(ふきのとう)と呼んでいる。蕗の薹(ふきのとう)は、蕾の状態で採取され、天ぷらや煮物・味噌汁・ふきのとう味噌等に調理して食べられる。「2」と「10」で「ふ(2)きのとう(10)」の語呂合わせから、2月10日が「蕗の薹(ふきのとう)の日」とされている。また、1970年代のフォーク/ニューミュージックブームの牽引役となったグループの1つで、山木康世と細坪基佳によるフォークデュオ『ふきのとう』には、「春雷」という曲がある。啓蟄のことを、日本以外の漢字文化圏では驚蟄と書く。また、日本でもそう書く場合がある。これは、中国漢王朝(前漢)第6代皇帝である景帝の諱(人の本名[名])が「啓」であり、避諱(目上の者の諱を用いることを忌避する、中国等、東アジアの漢字文化圏にみられる慣習)して意味が似ている「驚」の字で代用したことに由来する。同時に、孟春正月の驚蟄と、仲春二月節の「雨水」との順番を入換えた。同様に、「穀雨」と「清明」の順次も入換えた。漢初以前は、「立春 ⇒ 啓蟄 ⇒ 雨水 ⇒ 春分 ⇒ 穀雨 ⇒ 清明」であったものが、漢景帝代以降は、「立春 ⇒ 雨水 ⇒ 驚蟄 ⇒ 春分 ⇒ 清明 ⇒ 穀雨」となった。なお、景帝は、父である第5代皇帝、文帝と同様に漢王朝の基盤を固める善政を行ない、その治世は「文景の治」と賞賛された。中国唐朝の代に入ると、啓の字を避ける必要がなくなったことから「啓蟄」に戻された。それと同時に、順次も孟春正月中に変えられている。しかし、使い慣れないせいもあって、大衍暦(中国唐朝の僧、一行[いちぎょう]が、中国唐朝の第9代皇帝玄宗の勅令を受けて編纂した暦法で、一行らは南は交州[現在の中国南部からベトナム北部の地域で、中国漢王朝では最南端の領域となっていた]から北は鉄勒[現在の中国北部からモンゴルにかけての地域]に至る子午線弧長の測量を行ない、中国全土に及ぶ大規模な天文測量を実施しており、大衍暦は非常に整備された暦法であり、その形式が後世の模範となった)で再び「驚蟄」に戻され現在に至る。日本でも、中国と同様に「驚蟄」が、歴代の具注暦に使われている。具注暦は、朝廷の陰陽寮(占い・天文・時・暦の編纂を担当する部署)が作成し頒布していた暦である。吉凶判断のための様々な暦注が記載されていたことから、「注が具さ(つぶさ)に記入されている」ということから具注暦と呼ばれる。 後に日本でも、大衍暦と宣明暦(中国暦の1つで、かつて中国や日本等で使われていた太陰太陽暦の暦法であり、正式には長慶宣明暦と言い、特に、日本においては中世を通じて約823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった)を採用したが、驚蟄は、日本では、仲春二月節とされた。日本で「啓蟄」が名称として用いられたのは、1685(貞享2)年、宣明暦から、初めて日本人である天文暦学者の渋川春海の手によって編纂された太陰太陽暦の暦法、貞享暦に改暦された、貞享の改暦の時である。従来の仲春二月節のまま、文字だけが改められた。二十四節気の名称の内で、日本と中国で異なっているのはこれだけである。因みに、アメリカには、ジリス(地栗鼠、地上で生活するリスの総称)の一種グラウンドホッグが外に出るか、出ないかで春を占う「グラウンドホッグデー」というものがある。
巣籠もりの虫戸を開く。
七十二候の1つ(7候)。

スチュワーデスの日。
1931(昭和6)年3月5日、東京と、静岡県下田を経由して静岡県清水(現在の静岡市清水区)との間の定期航空営業を行なっていた民間航空会社、東京航空輸送社(後に国の方針により、日本国内における航空輸送事業を統一営業することとなった大日本航空に吸収合併されたが、大日本航空は、第二次世界大戦終戦後に解散する)が実施した、日本初のスチュワーデス採用試験の結果が発表された。「エア・ガール」という呼び名で募集され、2月5日に試験が行なわれた。140名の応募に対し、合格者は3名で、定期旅客路線に新卒として採用された。その後、大日本航空もスチュワーデスを採用した。客室乗務員は、交通機関の運行(運航)中、主として客室における乗客への接客サービスに従事する乗務員である。運航中の旅客機の客室において、緊急時の誘導等の保安業務や乗客へのサービスを行なう乗務員は、キャビンクルーやフライトアテンダントと呼ばれる。かつては、船舶の司厨員に由来する「スチュワード」(女性はスチュワーデス)の呼称が広く用いられていた。乗客(利用者)の中では一般的に、女性の客室乗務員をスチュワーデス、男性の客室乗務員をスチュワードやパーサーと呼ぶ人も多い。1919(大正8)年から始まった航空機の客室内サービスは当初、副操縦士が行なっていた。1922(大正11)年4月、イギリスの航空会社、デイムラー・エアハイヤー(現在のイギリスのいわゆる「フラッグ・キャリア」[一国を代表する航空会社]ブリティッシュ・エアウェイズ)が「キャビン・ボーイズ」と呼ばれた少年3名を航空機に乗せたのが、世界初の客室乗務員とされる。しかし、その存在はお飾りであったという。1929(昭和4)年には、パンアメリカン航空(アメリカの航空会社で、1991[平成3]年に会社破産し消滅)が本格的に訓練されたスチュワードを搭乗させ、好感が良い若い男性の代名詞ともなった。1930(昭和5)年には、アメリカ合衆国のボーイング・エア・トランスポート社(現在のユナイテッド航空)が、女性の元看護師を客室乗務員として乗務させた。これは、当時まだ「危険な乗り物」というイメージが付いていた飛行機に、女性の乗務員を搭乗させることで、「女性も乗れるような安全な乗り物である」と乗客にアピールするという意味もあった、と言われている。なお、それまでボーイング・エア・トランスポート社では、男性の運航乗務員のみが機内サービスや緊急時の対応を行なっていた。1930年代中盤以降の、双発プロペラ旅客機ダグラスDC-2やダグラスDC-3等の全金属製旅客機の導入がもたらした旅客機の大型化に伴ない、日本やイギリス、アメリカだけでなく、ヨーロッパの航空会社も、男性や女性の客室乗務員を次々と乗務させることとなる。第二次世界大戦の勃発で国際線は男性1名のみ、女性は国内線のみとなったことや、乗客の殆どが男性であったため、客室乗務員が女性に占められるようになっていく。第二次世界大戦終結後の1940年代後半には、世界各国で航空会社が次々と開業し、アメリカやヨーロッパの主要国においては、旅客機での旅が一般層にも浸透することになる。1950年代にかけては、4発大型レシプロ旅客機ダグラスDC-4Bや、傑作機として名高い4発大型レシプロ旅客機DC-6、レシプロエンジン旅客機の歴史の最後を飾る存在として著名な4発大型レシプロ旅客機ロッキード コンステレーション等の、大西洋無着陸横断が可能な大型旅客機の就航により、客室乗務員の採用数が増加し、それと共に、女性の「花形職種」として持てはやされるようになった。日本では、それまでは海外渡航は、業務や留学目的のものに限られていたものの、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間、日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期があり、その高度経済成長に伴なう外貨収入の増加を受けて、1964(昭和39)年4月1日に海外渡航が完全に自由化され、「ジャルパック」等の海外への団体観光ツアーが次々と発売されるようになった他、外国航空会社の新規乗入れが相次ぎ、外国航空会社による日本人客室乗務員の採用も急増した。しかし、海外旅行はまだまだ一般層にとって高嶺の花であったこともあり、日本において客室乗務員は、男女共に「ステータス」の高い花形職業とされていた。日本では、海外旅行の大衆化が欧米の先進諸国に比べて遅れていた上、日本国政府の保護政策で航空会社同士の競争が活発でなく、さらに、女性がその多くを占めた日本では、初めて客室乗務員を扱ったテレビドラマ『アテンションプリーズ』や日本航空(JAL)の客室乗務員訓練生を描いたテレビドラマ『スチュワーデス物語』等、人気テレビドラマの題材にもなり、1980年代になってもなお、女性の憧れる職業の上位として憧れの存在であった。しかし、日本でも1980年代後半のバブル景気(資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象)前後の円高を受けて、海外旅行の大衆化が進み、大型機の大量導入に伴なう採用人数の増加、競争激化を受けたコスト削減の影響を受けた、大手航空会社における契約制客室乗務員(大手航空会社においては女性のみの採用)の導入を代表とした待遇の低下、女性側の意識変化や、ハードな職業であるとの認識の浸透により、「客室乗務員」が昔と比べて、憧れだけの志願生は減り、特に、ステータスが高いものではないというように変革し、1990年代に入ると、女性の人気職業の1つではあるものの、以前よりその人気は下がった。かつては「若いこと」が採用の条件であったが、現在の日本においては、雇用形態の柔軟化を受けて、国内大手航空会社の中途採用では30代、経験者の有期限再雇用では40代での採用も可能になるよう変わりつつある。各国の法令により、機材の仕様(ドア数)や座席数、飛行時間により最低乗務人数が決められている(実際に搭乗している乗客数に係わらず、固定されている)。通常は、乗客約50名に対して客室乗務員が1名以上、それ以上の大きさの機材の場合はドア数に合わせた人数が乗務することが基本となっており、国際線では、それを基本にして、旅客数やサービス内容に応じてサービス要員として人数が増える。また、日本国内においては、定員が19名以下の機種には客室乗務員を乗務させる必要はない。なお、客室乗務員に対する社内での呼称は、航空会社によっても相違があり、日本航空では単に「アテンダント(AT)」、全日本空輸では「スカイサービスアテンダント」を用いている。客室乗務員は、主に機内サービスや機内清掃、保安業務、緊急時対応等の業務を行なっている。日本の大手航空会社の場合、新人は入社後2年から3年程度国内線のみを担当し、その後、国際線移行訓練を受けてから国際線も担当する。なお、外国航空会社の日本人客室乗務員は、日本人乗客対応が主な採用、乗務理由であることもあり、本拠地と日本を往復する路線のみを担当するケースが多い。男性客室乗務員が搭乗している時は、厨房内の仕事や力仕事等の業務に回されるケースが多いが、日本の航空会社の場合、男性客室乗務員の数が殆ど居ない状態で、特に、日本人の男性客室乗務員が乗務していないケースが殆どであった。しかし、2010年代に入ると、徐々に数も増え始め、日本航空では、5月5日に男性客室乗務員だけで運行する、鯉のぼりフライト等のイベントも行なわれるようになった。