3月3日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1日曜日 旧暦  1月23日、大安(丙寅)、月齢 22.2  
グレゴリオ暦で年始から63日目、年末まであと303日。
誕生花 モモ(ピンク)・ハナモモ・レンゲソウ。

上巳の節供(桃の節供、雛祭り)。
五節供の1つで、元々は3月上旬の巳の日であったが、後に3月3日に行なわれるようになった。旧暦では、3月3日は桃の花が咲く季節であることから「桃の節句」とも言われる。古来中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣があり、これが平安時代に日本に取入れられた。後に、紙で小さな人の形(形代)を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して不浄を祓うようになった。この風習は、現在でも「流し雛」として各地に残っている。京の貴族階級の子女が、天皇の御所を模した御殿や飾付けで遊んで、健康と厄除を願った「上巳の節句」が始まりとされる。やがて、武家社会でも行なわれるようになり、江戸時代には、庶民の人形遊びと節句が結び付けられ、行事となり発展した。元々は、5月5日の「端午の節句」と共に男女の別なく行なわれていたが、江戸時代頃から、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、「端午の節句(菖蒲の節句)」は「尚武」にかけて男の子の節句とされるようになった。雛祭りは、女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事で、「ひいなあそび」ともいう。雛人形(「男雛」と「女雛」を中心とする人形)を飾り、桃の花を飾って、白酒や寿司等の飲食を楽しむ節句祭りとなっている。江戸時代後期には、「有職雛」と呼ばれる宮中の雅雛装束を正確に再現したものが現れ、さらに、今日の雛人形に繋がる「古今雛」が現れた。また、18世紀終わり近くより囃子人形(五人囃子)が現れ、幕末までには官女・随身・仕丁等の添え人形が考案された。雛飾りは、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形に付き従う従者人形達や小道具、御殿や壇飾り等、急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。御殿は江戸では用いられず、関西、及びその影響を受けた地方で用いられ、台所道具も同様である。雛人形は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。「女雛」の髪型は、主に「大垂髪(おすべらかし)」と「古典下げ髪(こてんさげがみ)」がある。「大垂髪」は、平安時代からの垂れ髪形式が鎌倉時代・室町時代を経て、江戸時代後期に完成された比較的新しい髪型で、ビン(前髪部分)を大きく張った髪型である。「古典下げ髪」は、割り毛とも呼ばれ、平安時代では長く黒い髪が美人の条件とされていたため、髪を全て後ろへ流し、僅かに垂らした両頬の毛を切揃えた髪型で、顔を髪の毛で三方から包むことで面長に見せ、肌色の白さを強調し、より美しく見せるためとされる。「古典下げ髪」は、「大垂髪」よりも結髪の技法が難しく、結髪師の技量が問われるため、現在は希少となっている。内裏雛、或いは親王(男雛、女雛)は、それぞれ天皇、皇后を表わすもので、正しくは親王と親王妃である。「内裏雛」とは、雛人形の「男雛」と「女雛」の一対を指す。男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶのは、叙情的な作風で知られる昭和時代中期の詩人・童謡作詞家・作家、サトウハチローが作詞した童謡『うれしいひなまつり』の歌詞から広まった誤用である。サトウハチロー自身はこの誤りを恥じ、後々まで気にしていたという。三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。現代日本では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く、結婚式の新郎新婦もそれに倣っているが、人形の配置の仕方は近代前後で変化があり、それが現在も地域差として残っている。壇上の「内裏雛」は、内裏(天皇の住居とその周囲の官庁一帯である宮城における、天皇の私的区域)の宮中の並び方を模している。かつての日本では、「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で、天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。因みに、飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿(天皇元服や立太子、節会等の儀式が行なわれた正殿)の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。第122代天皇、明治天皇の時代までは、左が高位というそのような伝統があったため、天皇である帝は左に立った。しかし、明治時代初頭の文明開化によって日本も西洋化し、その後に最初の即位式を挙げた第123代天皇、大正天皇は、西洋に倣って右に立った。それが皇室の伝統となり、第124代天皇、昭和天皇はいつも右に立ち、その后である香淳皇后が左に並んだ。それに倣い、男雛を右(向かって左)に配置することが一般的となったが、現在でも畿内(近畿地方)や西日本を中心に、旧来の配置を続けている家庭もあり、社団法人日本人形協会では、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」としている。江戸時代、雛祭りは「五節句」の1つとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873(明治6)年の新暦採用が「五節句( = 雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、第二次世界大戦後になって、新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定に当たり、3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北を始め、寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にした、というのが大きな理由の1つとされる。祭りの日が終わった後も、雛人形を片付けずにいると結婚が遅れる、という話は、昭和初期に作られた俗説ともされ、旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、ということが理由とされる。また、地域によっては「おひな様は春の飾りもので、季節の節できちんと片付ける、等のけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味から、とも言われている。雛祭りの行事に食べられる食品には、菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司等があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。菱餅は、桃の節句に雛人形を飾る際に、それと共に供える菱形の餅であり、桃の節句の行事食である。赤・白・緑の3色のものが多いが、地方によっては異なり、2色であったり、5色や7色になっている餅を菱形に切って重ねて作る。今の形になったのは江戸時代からである。赤い餅は先祖を尊び、厄を祓い、解毒作用のある山梔子の実で赤味を付け、健康を祝うためであり、桃の花を表わしている。白い餅は菱の実を入れ、血圧低下の効果を得て、清浄を表わし、残雪を模している。緑の草餅は、初めは母子草(ハハコグサ)の草餅であったが、「母子草をつく」と連想され、代わりに増血効果がある蓬を使った。春先に芽吹く蓬の新芽によって穢れを祓い、萌える若草を喩えた。菱形の形は、大地を表わすという説の他、諸説ある。雛あられとは、雛祭りに供えられる節句菓子であり、菓子に付けられる白色は雪、緑色は木々の芽、桃色は生命を表わしている。もち米の乾飯(炊くか蒸した後に十分乾燥させたもの)や豆を炒ったものに砂糖がけして甘味を付けている。桃色・緑色等の色を付ける場合、あられに着色するか、色付きの砂糖をあられにかける。関西では、一般的な塩、又は醤油味のあられを、丸い形状にして作っている。白酒は、雛祭りで祝いのために出される酒で、アルコール分は約9%、糖質は約45%含まれ、「酒税法(昭和28年2月28日法律第6号)」では、蒸留酒(スピリッツ)に果実やハーブ等の副材料を加えて、香味を蒸留酒(スピリッツ)に移し、砂糖やシロップ、着色料等を添加し調製した、混成酒であるリキュール類に分類される。一般的な製法は、蒸したもち米に同量以上の味醂を加えてかき混ぜるか、蒸したもち米に焼酎と米麹を加える等して仕込んでおいたものを、数週間後に臼で引下ろす。白酒の製法は、九州北部の博多地方において、古くから造られていた「練酒」が起源であると伝えられており、江戸時代から雛祭りのお供えとして扱われるようになったのは、平安時代からの風習である上巳(桃の節句)において、室町時代から桃の花を浸した酒を飲んでいたものが変化した、と伝えられている。