2月28日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

織部の日。
1599(慶長4)年、織部流茶道の祖であり、安土桃山時代から江戸時代初期の大名である古田重然(古田織部)が、後に織部焼と呼ばれることになる、自分で焼いた茶器を用い、京都の伏見で茶会を催したことに因んで、1988(昭和63)年に岐阜県土岐市が制定。織部焼は、古田重然(古田織部)の指導で創始され、古田重然(古田織部)好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器等を多く産した。当時の南蛮貿易(16世紀半ばから17世紀初期、東南アジアから東アジアの海域で、日本の商人、南蛮人[ポルトガル人とスペイン人]、明時代の中国人、ヨーロッパとアジアの混血住民の間で行なわれていた貿易)で中国南方からもたらされ、茶人達に珍重された交趾焼(華南三彩とも呼ばれる、中国南部で生産された陶磁器の一種)を元にしたと考えられる。近年まで、古田重然(古田織部)が関与したことを示す資料がなかったが、古田重然(古田織部)が花押(署名の代わりに使用される記号・符号)を鉄絵で記した沓茶碗が発見されたこと(個人蔵)や、京都の古田重然(古田織部)の屋敷跡から織部焼が発掘されたことから、伝承通り古田重然(古田織部)が関わっていたことが証明されつつある。但し、この名称が用いられるようになったのは、古田重然(古田織部)死後、暫く後の寛文年間(1661年から1673年までの期間)頃からであり、一般に広まるのは、元禄年間(1688年以降)に入ってからである。古田氏は元々、美濃国(現在の岐阜県南部)の守護大名、土岐氏に仕えていたが、古田重然(古田織部)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国時代の三大名将に仕えた。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。古田重然(古田織部)は、わび茶(簡素簡略の境地、即ち「わび」の精神を重んじた茶の湯)の完成者として知られ、茶聖とも称される千利休(千宗易)が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭等に亘って、「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。千利休(千宗易)の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、千利休(千宗易)の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを1つの流派に育て上げた。職人や陶工らを多数抱えて創作活動を競わせ、自らは言わば茶の湯のコーディネーターとして指導に当たった。武将としての古田重然は、織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、主に豊臣秀吉の麾下の武将として活躍した。1585(天正13)年に豊臣秀吉が関白になると、古田重然は年来の功績を賞され、従五位下織部正(織部助)に任ぜられた。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その後は徳川家康に仕えたが、1615(慶長20)年)の大坂夏の陣の折りに、古田重然の重臣である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで、京都所司代(京都の治安維持の任務に当たった幕府の部署)の板倉勝重に捕らえられた。古田重然自身も、1614(慶長19)年の大坂冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた等の嫌疑を掛けられ、大坂落城後に切腹を命じられた。古田重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したと言われる。古田重然(古田織部)は、茶の湯を通じて、朝廷・貴族・寺社・経済界と様々な繋がりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、豊臣秀吉の数寄の和尚(筆頭茶頭)、次いで、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の茶の湯の指南役にも抜擢されている。茶の湯の師である千利休(千宗易)同様、反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することが少なくなく、その影響力を幕府から危険視されていたことが、切腹を命じられた背景にあった、と考えられている。古田重然(古田織部)について、陶芸家・陶磁史研究家の加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見い出した人だが、作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた。歴史小説に新風を送った作家、司馬遼太郎は「おそらく世界の造形芸術史の中で、今日でいう前衛精神をもった最初の人物ではないかと思う」と、その芸術志向を評している。なお、古田重然(古田織部)が千利休(千宗易)死後、他の名立たる茶人達を抑えて「天下一の茶の湯名人」と謳われたのは、古田重然(古田織部)のもつ、大名という高い身分の力もあった、ともされる。大阪市生野区林寺に本社を置く、チョコレートやクッキー等の菓子を製造・販売する製菓会社、フルタ製菓株式会社が2016(平成28)年に、発売40周年を迎える「セコイヤチョコレート」と、新商品である「エブリワンクッキー」のテレビCMに、古田重然(古田織部)を起用した。このCテレビMは、京都市北区上賀茂桜井町に所在する、古田織部(古田重然)縁の茶道具、古美術、歴史資料等を展示する美術館、古田織部美術館より第1回「織部賞」を受賞した。2014(平成26)年に開館し、2016(平成28)年に現在地へ移転した古田織部美術館は、古田重然(古田織部)とその周辺の武将茶人縁のもの、古田重然(古田織部)好みの桃山陶器類、織部形の茶道具を多数収蔵し、常時40点から50点程度を展示しており、年3回の頻度で企画展が行なわれる。坪庭には、古田重然(古田織部)好みの織部灯籠が据えられ、古田重然(古田織部)が好んだという団子「つくばい」が、古文書より復元されている。 
ビスケットの日。
常陸国水戸藩の医師で蘭学者、柴田方庵による書簡に、1855(安政2)年のこの日の日付で、ビスケットの製法を記した日本初の文書である「パン・ビスコイト製法書」を水戸藩に送ったことに因み、全国ビスケット協会が1980(昭和55)年に制定した。また、ビスケットの語源が、ラテン語で「二度焼かれた物」という意味の「ビス・コクトゥス(bis coctus)」であることから、「二度焼く(に[2]どや[8]く)」の語呂合せの意味も持たせている。東京都港区新橋に事務局を置く全国ビスケット協会は、量産型のビスケット製造業者をもって構成され、1927(昭和2)年5月、ビスケット業界の調和と発展を図ることを目的に設立され、1960(昭和35)年に社団法人となり、2012(平成24)年には一般社団法人に移行した。ビスケットは、小麦粉を主材料に焼いた洋菓子である。小麦粉に牛乳、ショートニング、バター、砂糖等を混ぜて、サクサクした食感に焼いたもので、チョコレート、ナッツ、果実加工品等が加えられる場合もある。本来の英語圏では、日本で言うところの「クッキー(cookie)」との区別は存在せず、イギリスでは両者をビスケットと呼び、アメリカでは両者をクッキーと呼ぶ。日本には、南蛮菓子(外国から輸入された菓子)の「ビスカウト」として、肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)に伝えられた。1853(嘉永6)年、蒸気外輪フリゲート艦『サスケハナ号』を旗艦とした、アメリカの蒸気船2隻を含む4隻の艦隊が江戸湾の浦賀(現在の神奈川県横須賀市東部に所在)沖に現れ、停泊した黒船来航の際には日本人にふるまわれ、好評を得たとされる。1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会(現在の東京都台東区にある上野公園で開催された、国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的とした、政府主導の博覧会)に合わせ、「乾蒸餅」という日本語訳語が生まれた。 
ニューパルサーの日。
登記上の本社を岡山県新見市高尾に置き、岡山市南区福富東に本部(実質の本社)を置くパチスロメーカーの山佐株式会社が制定。2021(令和3)年に自社を代表するパチスロ機種、「ニューパルサー」が登場してから28周年の記念イヤーとなることを機に、その認知度の向上と、今後リリースされるシリーズ作のプロモーションが目的。日付は、「ニューパルサー」が1993(平成5)年2月に稼働し始めたことと、愛称である「ニューパル」を、「28」ともじって2月28日としたもの。山佐株式会社は、航空機や船舶のリース、エネルギー事業等も行なっている。山佐株式会社の直営店として、パチンコ・パチスロ店「エンドレス」があり、直営店では、新機種の先行テスト導入が行なわれることが多いが、テストの結果、一般発売されずにお蔵入りとなる機種も少なくないという。航空機・船舶リース事業では、航空機は1986(昭和61)年から、船舶は2002(平成14)年から保有を開始しており、2014(平成26)年現在、ボーイング社とエアバス社の航空機を172機、船舶は16隻所有しており、大手航空会社や船会社にリースしている。航空機は、毎年1,000億円程度を購入し、リース先は、ルフトハンザドイツ航空、ブリティッシュ・エアウェイズ、カンタス航空、キャセイパシフィック航空、中国国際航空、エミレーツ航空、ライアンエアー、春秋航空等、約25社に及ぶ。資産の分散を兼ねたエネルギー事業としては、太陽光発電事業(いわゆるメガソーラー開発)を行なっている。