2月28日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

エッセイ記念日。
エッセイストの元祖と言われているフランスの哲学者、ミッシェル・ド・モンテーニュの誕生日(1553[天文22]年)に因んだ記念日。木村治美エッセイストグループ(KEG)が制定。木村治美は、イギリス文学者・随筆家で、保守派の論客でもある。フランス語で「試み」を意味する『随想録(エセー)』は、ミシェル・ド・モンテーニュが107の随筆を集め、1580(天正8)年に刊行した書物である。ミッシェル・ド・モンテーニュは、「随筆(エッセイ、エセー)」という、特定の話題に関する主観的な短い文章の形式を発明し、この書物は、その「随筆(エッセイ、エセー)」を収めている。人間のあらゆる営為を、断続的な文章で省察することにより、ミッシェル・ド・モンテーニュは人間そのものを率直に記述しようとし、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言(教訓の意味を持つ短い言葉)のような、独特の非連続的な文章で綴るモラリスト文学の伝統を開いた。ミッシェル・ド・モンテーニュは、16世紀ルネサンス(古典古代[ギリシャ、ローマ]の文化を復興しようとする文化運動)期のフランスを代表する哲学者・懐疑論(基本的原理・認識に対して、その普遍妥当性、客観性、又は蓋然性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ[独断]を排除しようとする主義)者・人文主義者(ギリシャ、ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人)である。日本における随筆の起源は、10世紀末に女流作家・歌人の清少納言によって書かれた『枕草子』である、とされる。『枕草子』における日常的風景に対する鋭い観察眼は、「をかし」という言葉で象徴される。その後も、平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人・随筆家、鴨長明による『方丈記』や、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家の卜部兼好(兼好法師)による『徒然草』等、優れた随筆作品が登場した。江戸時代に入ると、随筆は武士や町人等、様々な階級の人々によって書かれた。清少納言による『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並び、日本三大随筆の1つと評価されている『徒然草』は、序段を含めて244段から成る。文体は、平安時代後期に、万葉仮名を崩して生まれた平仮名による和文と、漢文の書下しである漢文訓読体とが合流して生まれた和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。序段には、「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、卜部兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学の1つに位置付けられる。卜部兼好が歌人や古典学者、能書家等であったことを反映し、内容は多岐に亘る。『徒然草』が伝える説話の中には、同時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても広く利用されている。作品の名にも採られる書出しの「つれづれ(徒然)」は、「やるべきことがなくて、手持ち無沙汰なさま」を意味する。「つれづれなり」と「よしなしごと」や、「書付く」は、先行する文学にも用いられている組合せであり、作品、及び自己を卑下する謙遜の辞である。執筆後約100年間は注目されなかったようで、同時代の史料に『徒然草』への言及は伝わらない。室町時代中期になって、「無常観の文学」という観点から『徒然草』は注目されるようになり、江戸時代になると、『徒然草』に記された教訓は、町人等にも親しみ易く、身近な古典として愛読され、江戸期の文化に多大な影響を及ぼした。こうして『徒然草』は古典となり、文学史上の位置が確定した。
利休忌、宗易忌。
茶人、千利休(千宗易)の1591(天正19)年の忌日(旧暦)。新暦に換算すると、3月か4月になる。現在では、3月27日と3月28日に、墓所のある大徳寺(京都市北区紫野大徳寺町に所在)で追善茶会が開かれる。千利休(千宗易)は、わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称される。また、今井宗久・津田宗及と共に、茶湯の天下三宗匠とも称されている。広く知られた「利休」の名は、1585(天正13)年の禁中茶会(皇居での茶会)に当たって、町人の身分では参内できないために、第106代天皇、正親町天皇から与えられた居士号(尊称)である。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生の殆どは「宗易」として送っている。千利休(千宗易)の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義とも言える。その代わりとして創作されたのが、楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物等に較べ、このような利休道具は、決して高価なものではなかった点は重要である。また、千利休(千宗易)は草庵茶室の創出という、茶室の普請においても画期的な変革を行なっている。それまでは、4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行なわれていなかった3畳、2畳の茶室を取入れ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床等を工夫し、茶室を一旦土壁で囲い、そこに、必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより、茶室内の光を自在に操り、必要な場所を必要なだけ照らし、逆に、暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には、天窓や風呂先窓等も工夫され、一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限とも言えるバリエーションを獲得することとなった。千利休(千宗易)の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築に留まらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。さらに、「露地」も千利休(千宗易)の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする、「総合芸術」として完成されたと言える。「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」等、多くの物に千利休(千宗易)の名が残っており、茶道のみならず、日本の伝統に大きな足跡を刻んだと言える。現存している利休の甲冑から推定すると、千利休(千宗易)の身長は180cm程で、当時としてはかなりの巨躯であったとされる。 
逍遥忌。
作家・演劇評論家・劇作家・翻訳家・英文学者、坪内逍遥の1935(昭和10)年の忌日。坪内逍遥は、作家としては、主に明治時代に活躍した。代表作は、評論『小説神髄』、長編小説『当世書生気質』、ウィリアム・シェイクスピア全集の翻訳で、別号に「春のやおぼろ(春廼屋朧)」「春のや主人」等があり、俳句も詠んだ。評論『小説神髄』は、小説を美術(芸術)として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義(現実を空想によらず、ありのままに捉えようとする主張)によって、日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。また、その理論を実践すべく長編小説『当世書生気質』(「春のやおぼろ先生」名義)を著した。1890(明治23)年からは小説執筆を断ち、イギリスの劇作家・詩人、ウィリアム・シェイクスピアと浄瑠璃・歌舞伎狂言作家、近松門左衛門の本格的な研究に着手する。1897(明治30)年前後に、戯曲として新歌舞伎『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』『お夏狂乱』『牧の方』等を書き、演劇の近代化に果たした役割も大きい。1906(明治39)年、文芸評論家・演出家・劇作家・作家・詩人の島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇(ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇)運動の先駆けとなった。また、早稲田大学文学部を中心にした文芸雑誌『早稲田文学』の成立にも貢献した。さらに、独力でウィリアム・シェイクスピア全作品を翻訳刊行した。東京都新宿区西早稲田の早稲田大学構内にある博物館、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、坪内逍遙の古稀(70歳)と、ウィリアム・シェイクスピア全訳の偉業を記念して創設されたものである。