2月28日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4水曜日 旧暦  1月19日、先勝(壬戌)、月齢 18.2  
グレゴリオ暦で年始から59日目、年末まであと307日。
誕生花 ヘリクリサム・月桂樹・シンピジュウム(緑)・スミレソウ・ハナムギ。

バカヤローの日。
1953(昭和28)年2月28日、当時の首相であった吉田茂が衆議院予算委員会の席で、日本社会党(現在の社会民主党[社民党]の前身)の西村栄一議員の質問に対して「バカヤロー」と発言した。これが元で内閣不信任案が提出・可決され、この結果、同1953(昭和28)年3月14日に衆議院が解散したため、この解散は「バカヤロー解散」と呼ばれている。吉田茂が大声を出したような印象を与えるが、吉田茂は、席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いたのみで、それを偶然マイクが拾い、気付いた西村栄一議員が「何がバカヤローだ!」と 聞き咎めたために騒ぎが大きくなった、というのが実態である。直後に吉田茂は発言を取消し、西村栄一議員もそれを了承したものの、この失言を議会軽視の表われとした日本社会党右派(ソビエト連邦・中国型の社会主義を志向せず、西欧型の社会民主主義を模範とした勢力)は、吉田茂を「議員としての懲罰事犯」に該当するとして、懲罰委員会に付託するための動議を提出した。この背景には、鳩山一郎や三木武吉ら、自由党(現在の自由民主党の前身の1つ)非主流派の画策があったと言われる。3月2日に行なわれた採決に際しては、自由党非主流派ばかりか、野党の改進党(修正資本主義、協同主義、自主外交等を政策に掲げた政党)で吉田茂側と協調姿勢を見せていた大麻唯男らの一派が欠席したことで、動議の可決は微妙と見られていたが、主流派と見られていた広川弘禅農相らの一派も欠席(この欠席を理由に、広川弘禅は農相を罷免された)したため、懲罰委員会への付託動議は可決された(その後、懲罰委員会は開かれたものの、委員会としての決議は出ぬまま、衆院解散により廃案となったため、本会議場における懲罰は科されていない)。さらに、追討ちを掛けるように内閣不信任決議案が提出され、先の懲罰事犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山一郎派30余名が脱党し、不信任案に賛成したため、3月14日にこれも可決される。これを受けて、吉田茂は衆議院を解散し、1953(昭和28)年4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行なわれた。与党であった自由党は、過半数を大きく割込む202議席(選挙直後に入党した保守系無所属を含む)となり、革新勢力は軒並み議席を伸ばした。「ワンマン(統括者が組織内で独裁的に物事を動かす、という意味)宰相」等の異名があり、癇癪持ちの頑固者であったが、優れた政治感覚と強いリーダーシップで第二次世界大戦後の混乱期にあった日本を盛立て、第の二次世界大戦後日本の礎を築いた吉田茂も、発言当初は「つい言ってしまったのがマイクに入った」としょげ返っていたが、数日後には元気を取戻し、会合で「これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃくのスピーチを行なっている。また、広川弘禅の裏切りについては、「坊主は三代祟る」(広川弘禅は僧籍を持っている)とイギリス仕込みのユーモリストである吉田茂らしい表現で皮肉っている。吉田茂は、駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国していた。吉田茂と西村栄一の関係は以前からしっくりいっていなかった。第二次世界大戦中、吉田茂は親英米派として軍部(とりわけ陸軍)に睨まれ、一時は憲兵に身柄を拘束される憂き目にも遭っていた。逆に、西村栄一は軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かった。その様なやっかみも手伝って、吉田茂は西村栄一に好感情を抱いていなかった。これが「バカヤロー発言」の一因とする見方がある。なお、西村栄一はその後、1960(昭和35)年の民主社会党(民社党)結成で、日本社会党右派の中で頭角を表わし、内閣官房長官や副総理も務めた西尾末広と行動を共にした。そして、1967(昭和42)年には、西尾末広の後を受けて2代目党委員長に就任したが、1971(昭和46)年、民主社会党(民社党)委員長在職のまま、67歳で病没した。右派社会民主主義政党の民主社会党(民社党)は、日本社会党の西尾末広、片山哲、水谷長三郎ら、右派の国会議員が活動方針を巡る党内抗争の結果、離党して結成した。結成時の党名は民主社会党で、1969(昭和44)年に民社党へ改称している。民主社会主義(革命を否定し、議会制民主主義の中で社会主義の理想を実現しようとする、中道左派の穏健な社会主義思想)に基づき、混合経済による福祉国家建設を掲げ、共産主義に対する強い敵意を特徴とした。吉田茂の率いる自由党は、かろうじて政権を維持したものの少数与党に転落し、吉田茂の影響力は急速に衰えていった。これが吉田茂退陣に繋がる。しかし、政界引退後も、神奈川県中郡大磯町にある吉田茂の自邸には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」等と呼ばれ、政界の実力者として隠然たる影響力を持っていた。晩年、吉田茂はその回想録の中で、「取るに足らない言葉尻を捉えて」不信任案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇怪事」で最大のもので「忘れることができない」と述べている。1860(安政7/万延元)年、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣した。1960(昭和35)年は、それから100年に当たることから、日米修好通商百周年記念として、日米両国でさまざまな祝賀行事が開催された。同年5月には、元首相の吉田茂が民間の遣米使節団の団長としてアメリカ諸都市を訪問し、100年前に遣米使節団を迎えたのと同じ会場で開催された正式午餐会に出席した。訪米した際、外国人記者団に質問され、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつき良くないし、口はうまいもの以外受付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」と応じた。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には、「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した。吉田茂は米寿を過ぎてもまだ矍鑠(かくしゃく、年をとっても丈夫で元気のいいさま)としていたが、ある日、大磯を訪れたある財界人が、そんな吉田茂に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。何か健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君達とは食い物が違う」と吉田茂は答えた。「そういった食べ物があるのならぜひ聞きたい」と財界人が身を乗出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田茂はからからと笑った。これが、吉田茂がこの世に残した最後のジョークとなった。因みに、吉田茂は、ノーベル平和賞に3回推薦されている。ノルウェー・ノーベル委員会が、守秘義務期間を過ぎたことから開示した選考資料によれば、1965(昭和40)年、1966(昭和41)年、1967(昭和42)年の候補になっていたことが明らかになっている。特に、1965(昭和40)年には、当時の首相佐藤栄作や外相椎名悦三郎、また、日本政府の働き掛けによって、元アメリカ合衆国国務長官ディーン・アチソンや元アメリカ合衆国国務長官コンラート・アデナウアーからの推薦も得て、吉田茂をノーベル平和賞候補にする推薦状が作られ、最終審査対象リストにも残っている。