2月19日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

プロレスの日。
1954(昭和29)年2月19日、日本初となるプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村政彦組対シャープ兄弟の試合が、両国国技館(2代目)が造られるまで、東京での大相撲の本場所を開催しており、プロレスやボクシング等の興行も行なわれていた、東京都台東区蔵前に所在した施設、蔵前国技館で開催された。プロレスは、リング上で主に観客へ見せることを目的とした攻防を展開する、格闘技を基本とした興行色の強い試合のことである。プロレスの起源は、イギリス中部のランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。アマチュアレスリングのグレコローマンスタイル(競技者が腰から下を攻防に用いることができないルール)を賞金マッチで行なったものが、アメリカで行なわれていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっており、プロモーションレスリング、或いは、プロモートレスリングの略称として、プロレスと呼称されるようになった。19世紀の初め頃に、ボクシングと共にイギリスで興行が開始されている。1830年代にはアメリカに、レスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられ、後にアメリカ合衆国第16代大統領となるエイブラハム・リンカーンも行なったことがある。現在のプロレスに直接繋がっているのは、19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは、サーカスの出し物の1つとして行なわれ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合をしたり、レスラー同士、或いはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末までは、レスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか、1人で旅芸人として巡業する必要があった。最初の日本人プロレスラーは、ソラキチ・マツダとされている。ソラキチ・マツダは福井県出身で、荒竹寅吉の四股名で伊勢ヶ濱部屋に所属した元力士で、1883(明治16)年1月14日にアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨークでプロレスラーとしてデビューする。第二次世界大戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍したことが、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった。その他、数名の日本人や日系人が主にアメリカで、プロレスラーとして活動していたことが確認されている。プロレス興行が根付いたのは第二次世界大戦後、力道山がプロレス団体、日本プロレスを旗揚げしてからのことである。第二次世界大戦後間もない頃で、多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は、街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得した。なお、各新聞社やテレビ局において、プロレスをスポーツとして扱うかエンターテインメントとして扱うか議論となったが、新聞では一応、エンターテインメントとしての扱い、という形で決着している。1940(昭和15)年5月場所初土俵、1946(昭和21)年11月場所に入幕した力道山光浩は、1949(昭和24)年5月場所に関脇に昇進するが、1950(昭和25)年9月場所前に突然、自ら髷を切り廃業する。その後、プロレス転向を決意して、1952(昭和27)年2月にはアメリカに渡り、太平洋中央部の洋上に位置するアメリカ合衆国ハワイ州の州都ホノルルで、日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して、プロレス団体の日本プロレス協会を設立する。世界タッグ選手権者として、カナダ出身の兄弟によるプロレスのタッグチーム、シャープ兄弟(兄がベン・シャープ、弟はマイク・シャープ)を招聘し、蔵前国技館(両国国技館[2代目]が造られるまで、東京での大相撲の本場所を開催しており、プロレスやボクシング等の興行も行なわれていた、東京都台東区蔵前に所在した国技館)で力道山・木村政彦組とのタッグマッチが行なわれた。日本テレビ(関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行なう特定地上基幹放送事業者である日本テレビ放送網)と日本放送協会(NHK)が同時中継し、東京都港区にある新橋駅西口広場の街頭テレビには、約2万の群衆が殺到したという。1953(昭和28)年から本放送を開始していたテレビ放送であるが、当時、国内において流通していたテレビ受像機は、輸入品が多くを占め、当時の会社員の年収数年分に相当する高額商品でもあり、庶民にはなかなか普及しなかった。日本テレビは、開局当時からコマーシャルを収入源としており、スポンサーを獲得するには、視聴者を一定数確保する必要に迫られていた。そのため、「テレビ放送の父」として知られた、当時の日本テレビ社長の正力松太郎は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園等、人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日本テレビが最初であり、小さい画面にも係わらず、特に、人気番組のプロレス中継やボクシング中継、大相撲中継には観衆が殺到した。その後、街頭テレビの大成功に触発される形で、民放テレビ局が次々と開局し、街頭テレビをさらに普及させた。放送局のみならず、受像機製造メーカーや販売店も競って街頭テレビを設置し、自社製品の優位性を訴えた。なお、大相撲出身の力道山が天下を取ったことで、角界からプロレス入りする者が続出し、現在も日本プロレス界の付き人制度等、相撲の影響が垣間見える。ブックとは、プロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと(なお、照明、音響、撮影係等のスタッフ用の興行進行台本は、これとは別の物となる)で、この台本を考案、作成する人間を「ブッカー」、又は「マッチメイカー」と呼ぶ。ブッカーは、リング外での筋書き(アングル)、及び試合展開や決着方法についての台本を考えて、レスラーはそれに合わせた試合を行なう。勝敗以外の詳細な試合展開については、試合を行なうもの同士の裁量に任されることが多いと言われ、口頭での打合わせによる。基本的に、試合展開や決着方法に関するブックは、当事者以外には知らされないとされているが、進行や演出の都合上の音響、撮影スタッフに伝達されることがある。日本の場合は、プロレス団体自らが台本の存在を公言したことは無い。日本のプロレスで、台本の存在が公になったのは法廷の場であり、裁判以外でも、個人が日本の団体における台本の存在を明かすことはある。長野県を中心に活動している信州プロレスや、芸人達によるギャグプロレス団体の西口プロレスでは、キャッチコピーに「台本重視、安全第一」等と掲げている。但し、個人が台本の存在を明示することはあっても、全ての団体、全ての試合に台本がある、という証明がされている訳ではなく、その点においては理解が必要である。台本通りの試合展開にならなくなることを、それを引き千切る様から「ブック破り」と呼ばれる。ブック破りは、一方の選手が意図的に行なうことが多いが、何らかのアクシデントのため、止むを得ずブック破りになってしまう試合もある。試合以外にも、リング外での選手、グループ、団体間の衝突(主に、抗争と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であり、いかに観客の注目を集めて、継続性の強いアングルを展開できるかが、観客動員に大きく影響する。アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開、消化して、最終戦において(大会場で開催されて、テレビ放送ではペイ・パー・ビュー[PPV、有料コンテンツに料金を支払って視聴するシステム]となる場合が多い)決着を着ける。そして、新しいアングルを展開する。プロレスは、試合とアングルを楽しむものであり、連続ドラマと類似している。
フェムテックを学ぶ日。
東京都港区浜松町に所在し、女性の心や体の変化、及びホルモンバランスについての正しい知識の啓発活動等を行なう一般社団法人、日本フェムテック協会が制定。記念日を通してフェムテック学び、そのリテラシーの向上、安全性の向上、医療従事者のフェムテック教育、研究に寄与することが目的。日付は、2月19日の「2」と「19」で、で「フェム(2)テ(10、ten)ク(9、九)」と読む語呂合わせから。また、2022(令和4)年2月19日に、初めての日本フェムテック協会認定資格2級講座を開催したことも、その理由の1つ。「female technology」を略した「フェムテック(Femtech)」は、女性の健康の課題をテクノロジーで解決する製品やサービスのことで、その範囲は、妊娠、不妊、避妊、授乳、育児、生理用品、産後ケア、婦人科系疾患、セクシュアル・ウェルネス等、多岐に亘る。