エアメールの日。
1911(明治44)年2月18日、インド北部にあるイラーハーバード(アラハバード)で開かれていた博覧会の会場から、約8km離れたナイニジャンクション駅まで約6,000通の手紙が、初めて飛行機によって運ばれたことによる。博覧会のアトラクションとして行なわれたもので、飛行は約13分間。イギリス人パイロットのアンリ・ペケが、骨組みに羽布張りのハンバー・ソマー複葉機を操縦した。この歴史的なイベントから50周年を記念して、1961(昭和36)年2月18日に発行された記念切手には、ハンバー・ソマー機の勇姿が描かれている。なお、ナイニジャンクション駅からは、普通に列車で運ばれた。エアメールとは、航空扱いとも呼ばれるもので、郵便制度の内、航空機により国内間、或いは国外間を結ぶことにより、配達までの時間短縮を図る扱いのことである。外国郵便では航空郵便、内国郵便やゆうパック(郵便事業の運営と郵便局の運営を行なう企業、日本郵便[JP]が提供する荷物のサービスの1つ)では航空機積載とも呼ばれる。世界初の定期的な、飛行機による郵便の航空扱いの営業は、1918(大正7)年5月15日にアメリカ合衆国郵政省(後のアメリカ合衆国郵便公社)が、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.とアメリカ合衆国北東部、ニューヨーク州ニューヨークとの間で、アメリカ合衆国北東部、ペンシルベニア州にあるフィラデルフィア経由で実施したものである。第一次世界大戦中も、当時のオーストリアが、軍用航空路線の一部区間を民間の航空扱いに開放していたが、双方向、かつ当初から民間路線扱いとして開業し、しかも、特別の料金を徴収したのは、アメリカ合衆国郵政省によるものが初と言える。内国郵便(国内郵便)の速達郵便では、日本郵便(JP)の内国郵便約款によって「もっとも速やかな運送便により、遅滞なく運送すること」と明記されており、郵政民営化(政府が1990年代末から2000年代にかけて行なっている郵政三事業[郵便・簡易保険・郵便貯金]を民営化するための政策)以前からの「郵便物運送委託法(昭和24年12月26日法律第284号)」との関係から、実質的には可能な限り航空貨物(基本的に定期旅客便に併載)で輸送されることとなっている。近距離の普通郵便(第一種・はがき)では、基本的に陸路(トラック輸送)を用いるが、遠距離や離島(特に、本州 - 北海道・沖縄県間や、東日本 - 九州間)の場合は、コンテナの積載量に余裕がある場合に航空積載されることが多い。但し、配達については、公示されている送達日数の範囲内であれば問題ないため、速達並みに早く配達されることはない。現在の日本の内国郵便の航空機積載は、基本的に定期旅客便への託送によっているが、過去には、集荷・配達に有利な夜間の郵便物専用便が運航されていた時期があった。1960年代後半、輸送量の多い札幌 - 東京 - 大阪 - 福岡の幹線区間については、夜間専用便(東京札幌間専用線・東京福岡間専用線)が設定され、レシプロ旅客機の傑作として名高いダグラスDC-6形機等の大型機を使用して運航が行なわれたが、1970年代以降、空港周辺地域の騒音問題から、早朝・深夜の航空機発着が規制されるようになり、夜間の専用便の運航は中止され、以後はもっぱら定期旅客便への託送によることとなっている。郵便に関する国際機関、万国郵便連合(UPU)各加盟国の郵便事業が請けもつ国際郵便の輸送方法には、船便と航空便の2種類に大別される。船便は、重量物であっても比較的廉価な料金で発送されるが、運搬に日数を要する。そのため、現在では信書等の比較的軽量で安価な郵便物や、生鮮食品のようにできるだけ早く到着させたい品物には航空便を利用する。航空便を使う信書を「AIR MAIL」と呼び、「エアメール」として日本語でも通じる。1990年代にサービスの細分化が行なわれ、航空便の中でも最優先で輸送・配達する国際スピード郵便(EMS)と、航空便より配達日数に時間を要するが、廉価なエコノミー航空便(SAL)が設けられた。国際スピード郵便(EMS)は、ビジネス書類や書誌の最新刊等、急を要するものに、エコノミー航空便(SAL)は、日数が掛かっても差支えのない荷物や、在外日本人向けの雑誌類の定期購読の送付によく用いられている。万国郵便連合(UPU)加盟国の郵便事業団体・法人では、航空書簡と国際郵便はがきを発行しており、切手を貼らず世界均一料金で、航空便により万国郵便連合(UPU)加盟の相手国へ送付することができる。日本では、日本郵便(JP)の事業所において、国際はがきが1枚70円、航空書簡が1枚90円で発売されている。航空書簡については、25gまでの薄いもの等を同封することができるが、重量を超過した場合は料金が発生する。エアメール封筒は、文房具店・郵便局に市販されているが、航空便と分かる表記をし、所定の地域料金に対応する切手を貼っていれば、その他の封筒でも、日本郵便が定める定形寸法(120mm×235mm)と重量(~25g迄、最大50g迄)を超えなければ、何の問題も無く航空扱いで送れる。郵便事業では、相手先から日本への返信用に国際返信切手券を販売しており、相手国が万国郵便連合(UPU)加盟国であれば、相手国の郵便料金に係わらず、1枚で航空便(手紙)の基本料金相当として、日本宛に返信することができる。
プライヤの日。
新潟県見附市坂井町に本社を置く、日本で唯一のプライヤ専門メーカー、株式会社五十嵐プライヤー(2022[令和4]年、株式会社IPS PLIERSに社名を変更)が制定。日付は、2月18日の「2」と「18」で、「プ(2)ライ(1)ヤ(8)」と読む語呂合わせから。家庭のDIYからプロまで使える汎用性の高い「プライヤ」を、より多くの人に知ってもらい、使ってもらうことが目的。「プライヤ」とは、ボルトやナット、パイプ等、様々な物を掴んだり挟んだり、曲げたり切断する時に使う作業工具。正式名称は「Slip joint pliers」で、ジョイント部分がスライド構造になっているため、先端部分をより大きく開くことができ、小さなものから大きなものまで挟める、非常に汎用性の高い工具である。その中でも、1988(昭和63)年に株式会社IPS PLIERSは、今までにはなかった「キズをつけずに、つかむ、まわる」という新発想の商品「ソフトタッチシリーズ」を開発。国内プライヤ製造業としての存在を確固たるものにした。
昭和52年豪雪(五二豪雪) 。
1976(昭和51)年12月から、翌1977(昭和52)年2月にかけて、全国的な低温と大雪により、死傷者や家屋被害が発生し、気象庁は「昭和52年豪雪」と命名した。1976(昭和51)年12月の終わりに二つ玉低気圧が通過し、東北地方や北海道で大雪となった。低気圧の通過後は強い冬型の気圧配置となり、翌1977(昭和52)年1月4日まで続いた。1977(昭和52)年1月中旬、1月末から2月上旬、さらに2月中旬には、強い冬型の気圧配置が持続し、上空に寒気が流れ込んだことから、この期間の平均気温は、全国的に平年より約2℃から約3℃低かった。この期間での最深積雪は、高田(新潟県上越市)で254cm、青森で195cm、石川県金沢で126cm、鳥取で105cm等、日本海側の平野部でも軒並み1mを超えた。また、太平洋側でも積雪となり、2月16日には、鹿児島市で14年振りに積雪20cm(当時の観測史上5位)を、さらに、2月18日には、伊豆諸島の八丈島で2cmの積雪があり(当時の観測史上2位)、伊豆諸島の有人島としては、最も南に位置する青ヶ島では、40年振りの積雪を観測した。この豪雪で、全国で死者101名、負傷者834名、浸水・損壊家屋1,600棟以上の被害となった。なお、豪雪とは、雪による雪害の内、程度の著しいものを呼ぶ。降雪量や積雪量による定義は存在せず、災害の程度が著しい場合に、気象災害名としても用いられる。世界的には、高緯度で海岸に近い山地等に豪雪地帯がみられるが、日本のように、比較的低緯度で、平野に多くの雪が降る特異な例もある。日本海側で降る雪は、多量の水分を含んでいるため、屋根に多量の雪が積もると、家屋の損壊等の被害が発生する。雪おろしの負担が増大し、高齢者を中心に、雪おろし中の事故が多発する。また、雪処理に莫大な費用が掛かるため、財政力の弱い市町村では、財政が悪化する可能性がある。
かの子忌。
多くの絵画や立体作品を制作するかたわら、文筆活動も行ない、雑誌やテレビ等のメディアにも、1950年代から積極的に出演した芸術家、岡本太郎の母で、作家・歌人・仏教研究家である岡本かの子の命日(1939[昭和14]年2月18日)。岡本かの子は、作家として実質的にデビューをしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫である岡本一平と「奇妙な夫婦生活(三人婚と呼ばれる、2人の同性と1人の異性による婚姻関係)」を送ったことで知られる。代表作は、フランスの首都パリに残した岡本太郎への愛を、ナルシシズム(自己愛)に支えられた母と子の姿で描いた短編小説『母子叙情』や、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された短編小説『老妓抄』、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた長編小説『生々流転』等。