2月18日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3日曜日 旧暦  1月 9日、先負(壬子)、月齢  8.2 
グレゴリオ暦で年始から49日目、年末まであと317日。
誕生花 キンポウゲ・キンギョソウ(白)・タンポポ・リュウキンカ・アルストロメリア。

冥王星の日。
1930(昭和5)年、アメリカ合衆国南西部、アリゾナ州北部のフラッグスタッフにあるローウェル天文台の職員であったクライド・トンボーが、1月23日(発見に繋がったこの日も、「冥王星の日」と呼ばれることがある)と1月29日に撮影した写真の比較研究から、太陽系の第九惑星とされた冥王星(赤道面での直径約2,370km)を発見した日。クライド・トンボーは、ローウェル天文台で太陽系第九惑星を探すプロジェクトに取組んでいた。当時最新の技術であった天体写真を用い、空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影して、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行ない、写真乾板の間で動いていると思われる天体を見付けた訳である。冥王星が発見されるまでの歴史は、太陽系第八惑星、海王星の発見、及び太陽系第七惑星、天王星の存在と密接に結び付いている。1840年代、フランスの数学者・天文学者、ユルバン・ルヴェリエとイギリスの数学者・天文学者、ジョン・クーチ・アダムズは、ニュートン力学(イギリスの物理学者・数学者・自然哲学者、アイザック・ニュートンが、物体の運動の様子を決める基本法則である運動の法則を基礎として構築した力学)の体系を用いて、天王星の軌道における摂動(2つの惑星、恒星と惑星、惑星と衛星等、ある天体とその母天体の作る系に対し、外部の物体との重力作用によって、その軌道が乱されること)の分析から、当時未発見の惑星であった海王星の位置を正確に予測した。摂動は、他の惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、ドイツの天文学者、ヨハン・ゴットフリート・ガレが、海王星を1846(弘化3)年9月23日に発見した。天文学者達は、19世紀後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまた他の未発見の惑星(「惑星X」)によって乱されていると推測し始めた。1909(明治42)年までに、アメリカの天文学者、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングとアメリカの天文学者で、日本研究者でもあったパーシヴァル・ローウェルは、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標を幾つか提唱した。1911(明治44)年5月には、インドの天文学者、ヴェンカテシュ・ケタカルによる、未発見の惑星の位置を予測した計算が、フランス天文学協会の会報で公表された。パーシヴァル・ローウェルは、冥王星の発見に関して重大な影響があった。1905(明治38)年、パーシヴァル・ローウェル自身が189(4明治27)年に設立していたローウェル天文台は、存在するかも知れない太陽系第九惑星を捜索する一大プロジェクトを開始した。プロジェクトは、パーシヴァル・ローウェルが1916(大正5)年に死去するまで続けられた。パーシヴァル・ローウェルの死後、その遺産である天文台を巡るパーシヴァル・ローウェルの妻との約10年にも及ぶ法廷闘争によって、「惑星X」の探索は、1929(昭和4)年まで実施されなかった。1929(昭和4)年に、当時の天文台長ヴェスト・スライファーが、クライド・トンボーにこの仕事を預け、1930(昭和5)年の発見に至った。皮肉にも、捜索のきっかけとなった、海王星の軌道の摂動の原因となるには、冥王星は余りにも小さ過ぎた。19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食違いは、海王星の質量の見積もりが正確でなかったためのものであった。一旦それが分かると、冥王星が非常に暗く、望遠鏡で円盤状に見えないことから、冥王星は、パーシヴァル・ローウェルの考えた「惑星X」であるという考えに疑問の目が向けられた。パーシヴァル・ローウェルは、1915(大正4)年に「惑星X」の位置を予測しており、これは、当時の冥王星の実際の位置にかなり近かった。しかし、イギリス生まれの数学者・天文学者、アーネスト・ウィリアム・ブラウンは、殆ど即座に、これは偶然の一致であると結論付け、この見方は今日でも支持されている。従って、冥王星がウィリアム・ヘンリー・ピッカリング、パーシヴァル・ローウェル、ヴェンカテシュ・ケタカルの予測した領域の近くにあったことが、ただの偶然に過ぎないことを考慮すると、クライド・トンボーが冥王星を発見したことは、さらに驚くべきことになる。冥王星は、その暗さから、ギリシャ神話(古代ギリシャより語り伝えられる伝承文化で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰広げる物語)の冥府(死後に行くとされている、或いは、霊魂が行くとされる世界)の神「ハーデース」が、ローマ神話に取入れられた、ローマ神話(イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して、地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家、古代ローマで伝えられた神話)における冥界を司る神に因み、「プルートー」と名付けられた。日本語名の「冥王星」は、英文学者・随筆家・天文民俗学者の野尻抱影が提案した名称である。古今東西の星座・星名を調べ上げたことから、「和製アレン」(19世紀後半のアメリカの博識家・アマチュア博物学者で、該博な知識を有していたことによって、友人から「歩く百科事典」と呼ばれていたリチャード・ヒンクリー・アレンに因む)とでも言うべき存在でもあった野尻抱影は、特に、星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行なわれる、星座とその伝説の解説には、野尻抱影の著作が引用されることが多い。野尻抱影は、この名称を「幽王星」という、もう1つの候補と共に、月刊雑誌『科学画報』(1920年代に創刊され、科学の記事だけでなく工業や技術、医学系の記事も扱っていた雑誌で、第二次世界大戦後に休刊)の1930(昭和5)年10月号に紹介した。この名称は、京都天文台(現在の京都市山科区の東山山腹に位置する京都大学大学院理学研究科附属花山天文台)ではすぐに採用されたが、東京天文台(現在の東京都三鷹市にある国立天文台)では、英語のままの「プルートー」が用いられた。当時、東京天文台と京都天文台とが、異なる用語を用いていることは、しばしばあった。1933(昭和8)年には中国でも「冥王星」が採用され使われ始めたが、東京天文台が「冥王星」を採用したのは、第二次世界大戦中に外来語(カタカナ語)を禁止した、1943(昭和18)年のことであった。現在では、中国語でも日本語と同じ「冥王星」が用いられている。冥王星は発見されて以来、長い間太陽系の9番目の惑星であり、外惑星の1つであるとされてきたが、1992(平成4)年以降、太陽系研究の進展により、太陽系の研究者の間等では、冥王星を惑星と見做すことへの疑問の声が広まっていた。発見から76年後の2006(平成18)年8月に開かれた国際天文学連合(IAU)総会で、それまで明確でなかった惑星の定義を定めると共に、「dwarf planet(準惑星)」という分類を新設することが採択された。この結果、冥王星は、ケレス、2003 UB313(分類と同時にエリスと命名)等と共に準惑星に分類された。再分類された後、冥王星は小惑星の一覧に記載され、小惑星番号134340番が与えられた。