2月15日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3木曜日 旧暦  1月 6日、赤口(己酉)、月齢  5.2   
グレゴリオ暦で年始から46日目、年末まであと320日。
誕生花 ミツマタ・スイートピー(白)・スギノハ・セッカヤナギ・ヒマラヤスギ・ムラサキハナナ。

涅槃会。
釈迦三大法会の1つ。本来は旧暦2月15日。仏教の開祖、釈迦の入滅した日に、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。入滅とは仏教用語で、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。「涅槃」「泥洹(ないおん)」等とも音写される。完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結することから、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。一般に、仏の死亡は入滅と称し、高僧の死亡は遷化と称するが、特に、宗祖の遷化を入滅と表現することもある。涅槃とは、古代インド・アーリア語に属する言語、サンスクリット語の「ニルヴァーナ」の訳語であり、迷妄のなくなった心の境地を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられている。実際には、釈尊が入滅した月日は不明で、中国で2月15日と定められた。本来は旧暦2月15日であるが、現在は月遅れの行事とされることが多い。また、3月15日に行なわれているところもある。宗派により供養の仕方は違うが、民間では、炒り豆やあられ、団子を作って寺に詣でる。法要中は、釈迦が娑羅双樹(世界の熱帯に自生するフタバガキ科の常緑高木)の下で涅槃に入った際の、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で臥し、周囲に十大弟子を始め諸菩薩、天部や獣畜、虫類等までが嘆き悲しむさまを描いた仏涅槃図(涅槃図)を掲げ、仏陀(悟りを得た人のことで、この場合は釈迦)の最後の説法の記録『仏遺教経』を読誦することとなっている。仏涅槃図の絵解きを行なうところもある。 
春一番名付けの日。
「春一番」とは、北海道と東北、沖縄を除く地域で、例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風である。主に、太平洋側で観測される。春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり、寒さが戻ることが多い。春一番の発生条件、及び認定基準は、地域、或いは気象台により、多少異なる。概ね、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速時速8m以上の風が吹込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件とする。但し、「日本海を進む低気圧に向かって」という条件は、比較的幅広く解釈されることもある。また、春一番は、必ずしも毎年発生する訳ではなく、風が春分の日までに気象台の認定基準に当て嵌まらず「春一番の観測なし」とされる年もある。各気象台が発表するのは、「○○地方における春一番」であり、その判断基準は、各気象台により異なることに注意が必要である。気象庁本庁(東京管区気象台)のように、東京都千代田区大手町(北の丸)単一地点のみにおける観測により、春一番かどうかを判断する気象台もあるが、特に、東海地方(名古屋地方気象台)、及び中国地方(広島地方気象台)の春一番は、明らかに特定の一地点における観測による判断ではないため、「地域によって」という表現を使用している。とりわけ、愛知県名古屋市周辺は、日本海低気圧に吹込む南寄りの風が紀伊山地等にブロックされて、春一番に相当する風が殆ど吹かないため、東海地方の春一番の判断は、大半が静岡市(静岡地方気象台)における観測によるもの、という指摘がある。なお、春一番が観測された時以降、同じ年に同様の南風が複数回発生した場合には、俗に「春二番」「春三番」と呼ぶことがある。「春一番」という語の新聞での初出は、1963(昭和38)年2月15日の朝日新聞朝刊に掲載された「春の突風」との記事とされる。また、1859(安政6)年旧暦2月13日、壱岐郷ノ浦(現在の長崎県壱岐市に所在)の漁師53名が長崎県五島列島沖で突風に遭い全員が死亡した。それ以前から、壱岐郷ノ浦の漁師の間で春の初めの強い南風が「春一」と呼ばれており、これが「春一番」の語源とする説を気象庁が紹介している。この故事により、1987(昭和62)年に郷ノ浦港近くの元居公園内に「春一番の塔」が建てられている。生涯に亘り日本各地をフィールドワークし続け(1,200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した民俗学者の宮本常一は、研究のため郷ノ浦町を訪れて、この「春一番」をいう語を採集し、1959(昭和34)年に壱岐で用いられている語として、古来からの四季折々の季節の言葉と心を集約した、俳句の実践的な用語集大成『俳句歳時記』で紹介した。これをきっかけに、「春一番」は新聞等で使われるようになり、一般に広まったとされる。つまり、郷ノ浦町で使われていた「春一」、又は「春一番」は、この語の初出であるかどうかはともかく、現在広く用いられている「春一番」という語の直接の源、ということになる。なお、石川県能登地方や三重県志摩地方以西で昔から用いられたという例を挙げ、諸説がある、ともしている。春一番は、雪崩や融雪洪水等の気象災害や海難事故をもたらすことが多い。1978(昭和53)年2月28日には、東京地方で春一番による竜巻が発生し、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線(現在の東京地下鉄[東京メトロ]東西線)の東京都江東区と江戸川区との境にある荒川中川橋梁(橋の全長は1,236mで、関西国際空港連絡橋[南海空港線・JR関西空港線りんくうタウン駅 - 関西空港駅間]の供用開始までは私鉄[JR以外]では最も長い鉄道橋であった)上で、強風を受けた列車(営団5000系電車10両編成)の後部3両が脱線、その内の2両が横転する事故が発生した。23名が負傷したこの事故では、ステンレスカーの車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は、50年から100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。
全日本スキー連盟設立の日。
1925(大正14)年2月15日、全日本スキー連盟が創立された。1908(明治41)年、札幌農学校(現在の北海道大学の前身)に赴任したスイス人ドイツ語講師ハンス・コラーが、スキー1台を持込み、スキーを冬の遊び、スポーツとして紹介し、広めることに貢献した。しかし、当の本人であるハンス・コラーは、スキーの滑り方をよく知らず、教えることもできず、学生達はスキーを履いて、札幌農学校構内で何度も転びながら練習したという。札幌は、日本で初めてスキーを滑り学んだ地となったが、まだ本格的なスキーとは程遠い状況であった。そこで、テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が登場する。1911(明治44)年1月12日、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍から交換将校として来日していたテオドール・エードラー・フォン・レルヒ陸軍少佐が、新潟県中頸城郡高田町(現在の新潟県上越市)の陸軍第13師団歩兵第58連隊の営庭を利用して、中隊長であった鶴見宜信陸軍歩兵大尉ら14名のスキー専修員に技術を伝授したことが、日本での本格的なスキー普及の第一歩とされている。東京都渋谷区神南に事務局を置く公益財団法人全日本スキー連盟は、日本におけるスキーを初めとしたスノースポーツの統括団体である。ノルディックスキー、アルペンスキー、フリースタイルスキー、スノーボードの各競技を統括し、公認スキー指導員や公認スキー検定員、 スキー場の安全管理を目的とする公認スキーパトロール等の検定、及び資格付与等を行なっている。