2月12日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2月曜日 旧暦  1月 3日、先負(丙午)、月齢  2.2  
グレゴリオ暦で年始から43日目、年末まであと323日。
誕生花 レンギョウ・アマリリス(赤)・キツネノマゴ・ネコヤナギ・プリムラマラコイデス・マンサク・ヤドリギ。

振替休日。
「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」の一部改正(「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律[第二次改正、昭和48年4月12日法律第10号]」)により、1973(昭和48)年4月から設けられた休日。祝日(国民の祝日)が日曜日の場合、その翌日となる月曜日が休日となった。但し、『「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする』と規定しているだけで、法律中に「振替休日」、「振替」の字句はなく、これらは通称である。「振替休日」の規定は、日曜日が休日であり、他の曜日が通常は休日でないことを前提とした作りになっている。振替休日で振替えられるのは「休日」という「状態」のみで、「○○の日」等の祝日はそのままの日(日曜日)である。従って、その祝日に因んだ祝典等も通例、その日曜日当日に行なわれる。1980年代以降、週休二日制が定着し、土曜日も休日としている企業・団体が多いが、土曜日と「国民の祝日」が重なっても、土曜日は振替休日が適用対象外の状態が続いている。「国民の祝日」が日曜日に当たる時のみが対象であるため、沖縄県が定めた記念日、慰霊の日(1945[昭和20]年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことに因む記念日で、6月23日)等、地方の公休日が日曜日であった場合は振替休日にはならない。また、振替休日が発生するのは日曜日と重なった場合のみで、他の種類の休日では発生しない。国民の祝日同士が重複した場合の振替休日の規定については、現時点では設けられていない。2017(平成29)年のように元日が日曜日であった場合、1月2日が振替休日となる。年末年始の1月3日までは公的機関等で休日とされ、官署職員の出勤も「祝日法」の休日の場合と同様に扱われるが、振替休日が1月4日になるようなことはない。2017(平成29)年の次に1月2日が振替休日となるのは、今年、2023(令和5)年である。1973(昭和48)年の天皇誕生日(当時は4月29日)が日曜日で、同年4月30日が最初の振替休日の適用日となった。当初は、祝日が2日以上連続することがなかったため、「月曜日を振替休日とする」としていた。しかし、2005(平成17)年の「国民の祝日に関する法律」の改正(「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律[第七次改正、平成17年5月20日法律第43号]」、2007[平成19]年施行)で5月3日から5月5日まで祝日が3日連続することになり、その直後の「国民の祝日でない日」を休日とすることと改められ、振替先が月曜日固定ではなくなった。因みに、このパターンに該当するのは、5月6日で、みどりの日の振替休日として火曜日が、憲法記念日の振替休日として水曜日が、振替先となる可能性があり、2020(令和2)年には、水曜日の5月6日が、憲法記念日の振替休日となった。2021(令和3)年では、延期された「東京オリンピック(第32回オリンピック競技大会)」の日程に合わせて、山の日を移動させることとなった。当初は、オリンピック閉会式翌日の8月9日に、山の日を移動させることを想定していたが、自由民主党(自民党)内から「長崎原爆の日である8月9日を祝日とするのは望ましくない」という意見が出たため、閉会式当日の8月8日(日曜日)に移動させ、8月9日は振替休日とすることとなった。
ペニシリンの日。
1941(昭和16)年2月12日、イギリス南部にあるオックスフォード大学附属病院が、世界で初めてペニシリンの臨床実験に成功したことによる。ペニシリンは、1928(昭和3)年にイギリスの細菌学者、アレクサンダー・フレミングによって発見された、世界初の抗生物質(微生物が産生し、他の微生物等、生体細胞の増殖や機能を阻害する物質の総称)である。アレクサンダー・フレミングが、ブドウ球菌(ブドウの果実のように球状の菌細胞が配列する細菌)の培養実験中に、コンタミネーション(科学実験の場における汚染)により生じたアオカビ(胞子の色が、肉眼で青みを帯びた水色であることからその名があるカビの総称)のコロニー(ある一定範囲に生育・生息する生物1種の個体の纏まりを表わす概念)の周囲に、阻止円(ブドウ球菌の生育が阻止される領域)が生じる現象を発見したことに端を発する。アレクサンダー・フレミングは、アオカビが生産する物質が、細菌を溶かしたものと考え(実際には、この現象は溶菌ではなく、細菌の発育阻止によるものであった)、アオカビを液体培養した後の濾液にも同じ活性があることを突止め、アレクサンダー・フレミング自身は単離しなかったその物質を、1929(昭和4)年にアオカビの学名に因んで「ペニシリン」と名付けた。その後、1940(昭和15)年にオーストラリア生まれのイギリスの生理学者、フローリー男爵ハワード・ウォルター・フローリーと、ドイツ生まれのイギリスの生化学者、エルンスト・ボリス・チェーンがペニシリンの単離に成功したが、1つと思われたペニシリンは、ペニシリンG、ペニシリンN等の混合物であった。翌1941(昭和16)年には、実際臨床で、その抗菌剤としての効果を確認した。その後は効率よくペニシリンを作る菌の探求が進むと共に、菌の培養、及びペニシリンの抽出法等が改良された。発見後、医療用として実用化されるまでには10年以上の歳月を要したが、1942(昭和17)年にベンジルペニシリン(ペニシリンG、PCG)が単離されて実用化され、大量生産が可能となったペニシリンは、第二次世界大戦において広く用いられ、多くの負傷兵や戦傷者を感染症から救った。第二次世界大戦終戦後の1945(昭和20)年からは、民間にも開放された。以降、種々の誘導体(ペニシリン系抗生物質)が開発され、医療現場に提供されてきた。1980年代以降、日本国内においては主力抗菌剤の座を、消化管吸収が一般に良く、副作用が少ないセファロスポリン系抗生物質や、経口投与が可能で比較的副作用が少ない薬剤であるニューキノロンに明渡した感があるが、ペニシリンの発見はこれらの抗菌剤が開発される礎を築いたものであり、「20世紀における偉大な発見」の中でも、特筆すべき1つとして数え上げられる。日本では、1943(昭和18)年にドイツの医学雑誌から存在を知った陸軍軍医学校で開発が始まり、翌1944(昭和19)年に少量ながら生産に成功。「碧素(へきそ)」と名付けられ、数名の患者に投与されて実績を挙げたが、大量生産には至らないまま第二次世界大戦終戦を迎えた。1946(昭和21)年からは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が招聘したアメリカ合衆国南部、テキサス州にあるテキサス大学のジャクソン・フォスター教授の指導の元に、日本の製薬会社各社が生産を開始し、翌1947(昭和22)年から病院を通して日本中へと広まった。その結果、日本では抗生物質の開発、及び生産が著しく増大し、感染症の治療法が普及して、乳児から高齢者までの全ての年齢層で感染症による死亡率が著しく減少。平均寿命の上昇に大きな影響をもたらした。ペニシリンは、狭義には、アレクサンダー・フレミングが発見したアオカビ培養液から精製したもの(天然ペニシリン)と、培地に原料を人為的に添加し、アオカビに合成させた後に精製したもの(生合成ペニシリン)を指し、これらには、ペニシリンG、ペニシリンV等の名称が付けられている。一方、これらを原料に化学修飾を施したもの(半合成ペニシリン)や、全て化学的に合成したもの(合成ペニシリン)も開発されている。これらはいずれも、その活性中心であるβ-ラクタム環を含んだ、ペナム骨格を有する抗生物質であり、ペニシリン系抗生物質、或いはペナム系抗生物質と総称される。広義には、これらのペニシリン系抗生物質のことを、全てペニシリンと呼ぶことがある。天然ペニシリンは、アレクサンダー・フレミングが発見した、アオカビの培養液に含まれていたペニシリンで、フローリー男爵ハワード・ウォルター・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンがその精製に成功した際、これらは複数のペニシリン系化合物の混合物であることが判明した。いずれも、ペナム環の3位にカルボン酸基が付いた、ペニシラン酸化合物である。6位側鎖の違いから、ペニシリン G、X、F、K等が発見されたが、その内、収量、活性、安定性の面で、ペニシリン G(ベンジルペニシリン)が最も抗菌剤として優れていた。天然ペニシリンを産生するアオカビの培養液に、別の原料を人為的に添加し、生合成的特性を利用して誘導体化した一群のペニシリンを、生合成ペニシリンと呼ぶ。即ち、培地中に目的のカルボン酸を大量に存在させ、他の栄養素や培養条件を調整することで、積極的に同カルボン酸を取込ませて、目的のペニシリン誘導体を醗酵させるのである。この方法で開発されたペニシリンとしては、フェノキシメチルペニシリン(ペニシリン V)、ペニシリン N、ペニシリン O等が挙げられる。半合成ペニシリンは、天然ペニシリンや生合成ペニシリンを原料にして、化学的な修飾を施して開発されたもので、その多くは、醗酵で得られたペニシリンを酵素的に6位側鎖を切断し、6-アミノペニシラン酸とし、続いて、化学的に新しい6位側鎖を導入する方法で誘導体化された。この方法は、生合成ペニシリンに比べ、誘導体化する際の制約が少ない為、多種多様のペニシリン誘導体を合成することが可能になった。ペニシリン系化合物が相次いで開発されていた1940年代から1950年代前半には、その構造の複雑さから、ペニシリンを化学的に全合成することは不可能と考えられていたが、1957(昭和32)年、アメリカの化学者、ジョン・シーハンがペニシリンVの全合成に成功した。これによって化学合成法が確立されると、それまで培養を必須としていたペニシリンの生産技術が変革し、従来の天然、生合成ペニシリンが化学合成されるようになると共に、新たに化学合成による新しいペニシリン系化合物が開発された。ペニシリン系抗生物質は、開発、及び生産の方法の違いによる分類の他、耐酸性と、治療対象になる微生物の範囲による分類が汎用的に用いられる。天然ペニシリンが酸によって分解され、経口投与が不能であった欠点を補うため、耐酸性ペニシリンが開発された。初期のペニシリンは、グラム陽性菌、及び陰性球菌に対してのみ有効で、また、ペニシリン耐性菌が獲得したペニシリナーゼ(ペニシリン分解酵素)によって不活化されるものであったが、ペニシリナーゼ抵抗性ペニシリン、グラム陰性桿菌にも有効な広域ペニシリン、の順に、抗菌スペクトルを広げる方向で開発が進んだ。