2月11日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

万歳三唱の日(続き)。
最初の三唱は、その「万歳、万歳、万々歳」と唱和するものであったが、最初の「万歳」で、馬車の馬が驚いて立止まってしまい、そのため、二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えず仕舞いに終わった。これを聴いた人々は、「万歳」を再唱したと思ったようで、以後、めでたい時の歓呼の声として、「バンザイ」が唱えられるようになった。「天皇陛下万歳」は、天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈るものである。近年でも、即位の礼や在位記念式典において公式に使われ、また、皇居における一般参賀等の場面において、万歳三唱する市民も多い。第二次世界大戦対米英戦中の日本軍兵士が連合国軍に対して、全滅(玉砕)を覚悟して行なった突入攻撃は、「バンザイ突撃」と呼ばれる。敗色濃厚にも拘らず突撃を行なった日本軍兵士の「バンザイ突撃」は、連合国軍将兵に少なからぬ恐怖を与えたという(バンザイ・アタック)。このことから、英語で「banzai」というと、本来の意味の他に「絶望的な(或いは、無謀な)試み」という意味もある。また、アメリカ合衆国陸軍第442連隊戦闘団(日系アメリカ人部隊)が、枢軸国軍に対する攻撃の際に、「万歳」を掛け声に使用した、と記録が残っている。第二次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍が有した連隊規模の部隊、第442連隊戦闘団は、士官等を除く殆どの隊員が、日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国軍相手に勇戦敢闘した。その激闘振りは、延べ死傷率314%(延べ死傷者数9,486名)という数字が示している。アメリカ合衆国史上、最も多くの勲章を受けた部隊としても知られる。特にその負傷者の多さから、「パープルハート(アメリカ合衆国の戦傷章で、日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章等とも訳される)大隊」とまで呼ばれた。このような欧米における「バンザイ」の認識は、21世紀になっても残っている。2014(平成26)年11月には、日本銀行審議委員に対する欧米人記者の質問の中で、「英米の市場関係者の間では、追加緩和による事実上の国債全額買取りという明確なマネタイゼーションと、増税延期という組合せを、バンザイノミクスという国債暴落政策として懸念する見方も出ている」と、「バンザイノミクス」なる新語が示された。この「バンザイノミクス」とは、第2次安倍内閣による経済政策の通称である「アベノミクス」に、バンザイ突撃の無謀さを掛けた造語とみられる。万歳の際には両手を上げることから、俗に「お手上げ」という意味で降参のことを示す表現として用いられることがあり、より具体的には、倒産や破産を意味する隠語として用いられる(「バンザイする」 = 「降参する」「倒産する」「破産する」)。また、野球等で、落下予測地点を見誤ったまま両手を広げ、飛球の捕球体勢に入ったために落としてしまうことを俗に「バンザイ」と言う。1990年代には、「万歳三唱令」と題した偽書が官庁を中心に広まった。これは、明治時代に施行された太政官布告の体裁を取っており、「万歳三唱の細部実施要領」なる詳細な作法まで記述された文書である。しかし、そのような内容の太政官布告や、その他の法令が公布・施行された事実はなく、類似の法令や公式文書等もない。その内容から、ある程度公文書の形式に通じた人物が作成したものと考えられているが、何故、このようなイタズラ文書が作成され、広まったのか、その作成者や作成の意図は不明である。 
文化勲章制定記念日。
1937(昭和12)年2月11日、「文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)が定められ、文化の発展に優れた業績を挙げた各界の人に、文化勲章が贈られることになった。第1回の受賞者は、擬古典主義(浮世草子・人形浄瑠璃作者で俳諧師でもある井原西鶴らの元禄文学等を見直そうとする古典回帰運動)の代表的作家である幸田露伴、近代日本画壇の巨匠とされる画家の横山大観、古典文学の研究や註釈、復刻にも力を尽くした、歌人・国文学者の佐々木信綱、鉄鋼、及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本は元より、世界に先駆けて創始して、「鉄の神様」や「鉄鋼の父」等とも呼ばれ、鉄鋼の世界的権威者として知られる物理学者・金属工学者(冶金学者)の本多光太郎ら9名であった。文化勲章の親授式は、毎年11月3日の文化の日に皇居宮殿松の間で行なわれ、天皇から直接授与(親授)される。1997(平成9)年から現行の天皇親授に切替えられたが、それまでは宮中で、天皇臨席の下に内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行なわれていた。そのため、以前は、同じく宮中伝達式により授与される旧勲二等と同位に位置付けられていたが、現在では、同じく天皇親授により授与される大綬章(旧勲一等)と同位に位置付けられている。受章者は、文部科学省の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織)、文化庁の文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて、文部科学大臣が推薦し、内閣府賞勲局で審査した上、閣議で決定する。慣例として、当年のノーベル賞受賞者が文化勲章未受章の場合にも授けられる。この慣例は、未受章者であった物理学者の江崎玲於奈が、1973(昭和48)年にノーベル物理学賞を受賞した際、翌年受章することになったことに端を発し、それ以降のケースでは、ノーベル賞と同年となった。
仁丹の日。 
口中清涼剤「仁丹」の製造販売元として知られる、大阪市中央区玉造に本社を置く医薬品メーカー、森下仁丹株式会社が制定した日。日付は、自社の創業日である1893(明治26)年2月11日と、「仁丹」の発売日である1905(明治38)年2月11日から。森下仁丹株式会社は、100年以上の長きに亘り、医薬品や健康食品等を手掛けてきた、日本を代表する医薬品メーカーの1つである。「仁丹」は、16種類の生薬を配合して丸め、銀箔(発売当初から第二次世界大戦前までは、顔料[着色に用いる粉末で水や油に不溶のものの総称]や研磨剤として使用されたベンガラ)でコーティングした丸薬である。独特の匂いを持つ。そのためもあって、携帯する際には専用の携帯ケースを使う。銀でコーティングをするのは、銀の殺菌効果で保存性を高めるためである。パッケージに描かれた登録商標である大礼服(明治初期にヨーロッパ宮廷での最上級正装として使用されていた、宮廷制服に倣って新たに定められた服)姿の通称「将軍マーク」は有名である。「仁丹」の宣伝普及に伴ない、大礼服着用の際の二角帽を軍人が俗称として「仁丹帽」と呼ぶようになった程である。「仁丹」の名前の由来は、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた儒教の教えの中心で最高の徳とされる「仁」と良薬や丸薬の意である「丹」を合わせたもので、森下仁丹創業者で、「日本の広告王」と称された商品広告の先駆者でもある森下博が命名した。1905(明治38)年に「懐中薬」として発売された「仁丹」は、赤色で大粒の物であったが、年を追う毎に改良が重ねられ、1929(昭和4)年に現在の形となる銀粒仁丹が発売される。医療水準が十分でなかった当時の日本において、創業者の森下博が「病気は予防すべきものである」という考えに基づき、毎日いつでも服用できるようにと、軍隊に召集された時、任地の台湾で現住民が清涼剤を口に含み、伝染病に感染しないようにしていたことに発想を得て、開発したものである。森下博は、売上げの3分の1を宣伝費に投資したと言われ、新聞や街の琺瑯(ホーロー)看板だけでなく、薬店に突出し看板や幟、自動販売機等を設置。大礼服マーク(通称「将軍マーク」)は、当時の薬局の目印になった程であった。また、電柱広告にも目を付け、町名表示と広告を併せたり、鉄道沿線の野立看板を設置。更に、東京浅草や大阪駅前に大イルミネーション「仁丹塔」を建て、これらは名所となった。全国津々浦々に名前が浸透した仁丹は、発売僅か2年で売薬中、売上高第1位を達成し、莫大な利益を上げた。