2月11日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

科学における女性と女児の国際デー
(International Day of Women and Girls in Science)。
2015(平成27)年の国際連合総会で制定され、2016(平成28)年から実施された、国際デーの1つ。女性と女児はこれまで長い間、差別的な固定概念のために、科学・技術・工学・数学の教育(STEM教育)を平等に受けることができなかった。私達の地球を守るために国際連合が主導する「持続可能な開発目標(SDGs)」等、国際的な開発目標を達成するためには、「科学」と「男女平等」の両方が不可欠である。この国際デーは、世界的に社会が女性と女児の「科学への完全かつ平等な参加」を達成し、さらに、「男女平等」と女性と女児の1人ひとりが発展に必要な力を付ける、「エンパワーメント」を達成するための日である。また、科学技術の分野での、女性と女児の重要な役割を認める日である。毎年、テーマが決められ、この日を中心に講演会等が実施されている。
世界病者の日 (World Day of the Sick) 。
中央ヨーロッパに位置するポーランドの出身で、第218代ローマ教皇ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522[大永2]年 - 1523[大永3]年)以来、455年振りの非イタリア人教皇にして、史上最初のスラヴ(中部ヨーロッパや東ヨーロッパに居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団)系教皇であり、同時に、20世紀中最年少で着座した教皇でもある、第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって、1993(平成5)年から始められた。この日は、「ルルドの聖母の記念日」に当たる。毎年この日には、教皇メッセージが発表される。病者がふさわしい援助を受けられるように、また、苦しんでいる人が、自らの苦しみの意味を受止めていくための必要な援助を得られるように、カトリックの医療関係者だけでなく、広く社会一般に訴えていくことを趣旨としている。2008(平成20)年には、第265代ローマ教皇ベネディクト16世はルルドを訪問して、聖体行列の後に聖体顕示台を掲げた。2013(平成25)年2月11日のルルドの聖母の記念日(世界病者の日)に、ベネディクト16世は、高齢による体調不良を理由に辞職することを公表し、719年振りに自由な意思によって生前退位し、「名誉教皇」となった。教皇の辞任は、教会法に規定があるものの、先例が数百年以上前になるため、辞任後の教皇の称号や権限等の処遇は、教会法で明確に規定されていなかった。このため、退職した司教が「名誉司教」と呼ばれることに倣い、「名誉教皇」という称号が新設された。また、「名誉教皇」も「教皇名」と「聖下」の尊称で呼ばれる。「名誉教皇聖下」と呼ばれた人物はこれまでになく、ベネディクト16世が最初の例となる。さらに、服装も、教皇と同様に純白のスータンとカロッタと呼ばれる帽子を着用する。しかし、ケープと飾り紐と「教皇の赤い靴」の着用はない。辞任した教皇は、コンクラーヴェ(教皇選挙)には参加しない。そもそも、コンクラーヴェ(教皇選挙)の参加資格は、「使徒座空位発生日時点で80歳未満の枢機卿」であるため、ベネディクト16世はこの条件を満たしていない。辞任と同時に「使徒座空位」が宣言され、教会は枢機卿団の管理に入った。この間、辞任した教皇はいかなる言動も取らない。ベネディクト16世の辞任を受けて、その後継を選ぶため、2013(平成25)年3月12日から実施されたコンクラーヴェ(教皇選挙)で、翌2013(平成25)3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で、76歳の枢機卿、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが新教皇に選出され、第266代ローマ教皇フランシスコとなった。フランシスコは、史上初のアメリカ大陸出身のローマ教皇であり、史上初のイエズス会(男子修道会の1つ)出身の教皇である。
ルルドの聖母の記念日。
1858(安政5)年2月11日、ランスとスペインの国境になっているピレネー山脈の麓、フランスの南西部にある人口15,000名程の小さな町ルルドで、14歳の少女ベルナデッタ・スビルー(フランスでは「ベルナデット」)が、郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしている時に、初めて聖母マリアが出現したと言われている。4月7日まで、合計18回に亘って出現し、「私は、無原罪の御宿りです」と名乗ったという。また、「罪人のために祈りなさい」との言葉も発したとされる。その印として、多くの奇跡があった。特に、聖母に言われた所を掘ってみると泉が湧き出て、その泉の飲んだり、浸した病人が奇跡的に治る等のことが続発した。今では、鉄道等の交通路の整備と相まって、ルルドはカトリック最大の巡礼地となり、毎年500万以上もの人達が訪れるようになった。日本では、幕末維新期の日本へのカトリック布教に主導的役割を果たしたパリ外国宣教会の司祭達によって、ルルドの信仰が熱心に紹介された。1879(明治12)年には、悪性腫瘍で余命いくばくもないと医師に宣告された少年が、ルルドの奇跡の話を聞いて洗礼を受け、熱心に聖母マリアに祈り、病気から快癒した。その後この少年は、長崎の神学校で勉強を続け、司祭に叙階された。1895(明治28)年には、長崎県南松浦郡玉之浦町(現在の長崎県五島市)の井持浦教会の敷地内にルルドの洞窟の模型の建設が始まった。これを嚆矢として、長崎を始めとして日本全国のカトリック教会にルルドの洞窟が盛んに造られるようになった。1921(大正10)年、フランスのヌヴェール愛徳女子修道会からメール・マリー・クロチルド・リチュニエ他7名の修道女が来日、大阪市東区玉造(現在の大阪市中央区玉造)に聖母女学院を開校した。教育に始まった愛徳女子修道会の事業は、その後、医療・福祉の分野にまで拡大し、今日に至っている。 
干支供養の日。
干支置物や雛人形、五月人形等を製造・販売している、愛知県瀬戸市薬師町に本社を置く陶磁器工芸メーカー、株式会社中外陶園が2001(平成13)年に制定。日付は、立春明けの2月の最初の土(つち)の日として、漢字の「土」は「十」と「一」でできていることから11日に。1年間大切に飾られ厄を払ってくれた干支置物に感謝し、元の土に還す日、としている。株式会社中外陶園では、1989(平成元)年より、毎年2月11日11時に、役目を終えた干支置物を、感謝の気持ちと共に元の土に還す、「干支供養祭」を実施している。また、「干支供養祭」で供養した干支置物を、リサイクル原料(還土)として50%使用し、新たな干支置物「還土干支」として蘇らせる、地球環境を大切にする取組みも行なっている。暦注(こよみに関する書物である暦本に記載される諸種の注記)の多くは「陰陽五行説」という古代中国の思想や易から発生し、月日に当てられるようになったもので、その大きな柱となるものが干支で、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組合せである。十干は元々、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸と、日を順に10日の纏まりで数えるための呼び名(符号)であった。10日毎に、「一旬(いちじゅん)」と呼び、3つの旬(上旬、中旬、下旬)で1ヶ月になるため、広く使われていた。古代中国では、万物は全て「陰」と「陽」の2つの要素に分けられるとする「陰陽説」と、全て木、火、土、金、水の5つの要素からなるとする「五行説」という思想があった。これらを組合せて「陰陽五行説」と言い、やがて陰陽五行説を「十干」に当嵌めるようになった。また、日本では、この「陰」と「陽」を「兄(え)」と「弟(と)」に見立て、「兄弟(えと)」と呼ぶようになった。一方、十二支は、元々12ヶ月の順を表わす呼び名であったが、やがてこれらに12種の動物を当てはめるようになったものである。干支の組合せ(十干と十二支の組合せ)は60通りあり、六十干支と呼ぶ。これが一巡すると還暦となる。干支は、年、月、日、時間、方位等を示すためにも使われ、それらの吉凶を表わすようにもなった。中国でも日本でも、暦は度々改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手掛かりになる。さらに、旧暦の月は、29日、又は30日で規律があまりなく、閏(うるう、月と月の間にさらに1ヶ月を入れる)もあるため、干支を使えば、閏があるかないかが分かる。また、干支は、時刻や方位、角度を表わすのにも用いられる。時刻については、現代の23時から翌1時までを子の刻とし、以下、丑、寅、と続いて、11時から13時までを午の刻とした。現在、夜0時を「子夜」、昼12時を「正午」、正午より前を「午前」、正午より後を「午後」と称するのは、これに由来する。怪談等で用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは、今日でいう午前2時半頃のことである。十二支では、東を卯、西を酉、南を午、北を子の方位としている。南北を結ぶ線(地球の赤道に直角に交差するように両極を結ぶ大円、経線に相当する)を「子午線」と呼ぶのは、これに由来する。四隅については、北東・南東・南西・北西がそれぞれ「うしとら」「たつみ」「ひつじさる」「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「艮(ごん)」「巽(そん)」「坤(こん)」「乾(けん)」の字を充当している。