2月11日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2日曜日 旧暦  1月 2日、友引(乙巳)、月齢  1.2  
グレゴリオ暦で年始から42日目、年末まであと324日。
誕生花 ガーベラ・カルミア・コウリヤナギ・フリージア・レモンバーム。

建国記念の日。
「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定している。1966(昭和41)年の改正「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(昭和41年6月25日法律第86号)」により、国民の祝日に加えられ、翌1967(昭和42)年2月11日から適用された。他の祝日が「祝日法」に日付を定めているのに対し、建国記念の日のみが「政令で定める日」と定められている。この規定に基づき、第1次佐藤栄作内閣の第2次改造内閣が「建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年12月9日政令第376号)」を定め、「国民の祝日に関する法律第二条に規定する建国記念の日は、二月十一日」とした。世界で「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国は多いが、何をもって建国記念日とするかは、国によって異なる。日本では、実際の建国日が明確ではないため、建国神話(日本神話)を基に、建国を祝う日として「建国記念の日」が定められた。2月11日という日付は、明治時代の初期に定められ、1948(昭和23)年に廃止された紀元節と同じである。紀元節の日付は、奈良時代に成立した日本に伝存する最古の正史『日本書紀』にある初代天皇、神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来する。建国の日ではなく、あくまでも建国を記念する日としたのも、紀元節のイメージを抑えるためとされる。当日は、各地の神社仏閣(神道[教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象等に基づくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教]神社・仏教寺院)で「建国祭」等の祭りが執り行なわれる。旧日本海軍の技術と伝統を継承している海上自衛隊では、基地や一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾(軍艦が祝祭日・記念日・式典等に際して、祝意を表わすために、艦首からマストを通して艦尾までの旗線に、信号旗等の旗を連ねて掲揚し、飾ること)が行なわれる。 
紀元節。
1873(明治6)年から1948(昭和23)年まで祝日(建国や独立等、その国の歴史的なできごとに由来したり、功績のあった人物を称えて制定された記念日で、宗教儀礼上の重要な祭祀を行なう日である祭日とは異なる)とされ、四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)の1つとされていた。奈良時代に成立した日本に伝存する最古の正史『日本書紀』による初代天皇、神武天皇即位の日である紀元前660(神武天皇元)年1月1日を、新暦(グレゴリオ暦)に換算した2月11日を祝日と定めた(「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム[明治6年10月14日太政官布告第344号]」)。当初は1月29日であったが、翌年から2月11日に変更された。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の意向で、日本国憲法の精神にそぐわないとして、1948(昭和23)年に制定された「国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)」附則2項で、「休日ニ關スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)」が廃止されたことに伴ない廃止されたが、1966(昭和41)年に「建国記念の日」として復活した。1873(明治5)年11月15日、紀元前660(神武天皇元)年を元年として「皇紀○○年」という年の数え方が作られたが、現在では殆ど使われていない。なお、現在の歴史学では、考古学上の確証がないことや、日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』のその神話的な内容から、神武天皇(『古事記』では137歳、『古事記』では127歳まで生存とある)が実在した人物かも含めて、その筋書きをそのままの史実であるとは考えられていない。1873(明治6)年1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行なわれた。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(「神武天皇御即位日ヲ紀元節ト称ス[明治6年3月7日太政官布告第91号]」)。2月11日という日付は、文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)天文局が算出し、数学者・暦学者の塚本明毅が審査して決定した。なお、塚本明毅は、従来の太陰太陽暦(月の満ち欠けの周期を基にした太陰暦を基とするが、太陽の動きも参考にして閏月[季節と日付を合わせるため付加える特別の月で、同じ月を2回繰返し、後者を閏何月と呼ぶ]を入れ、月日を定める暦法)を廃し、太陽暦を採用すると公布した「改暦ノ布告(明治5年11月9日太政官布告第337号)」を建議している。紀元節には、皇居内の皇霊殿(歴代天皇・皇族の御霊が祀られている建造物で、賢所・神殿と共に宮中三殿と呼ばれる)で天皇親祭の祭儀が行なわれ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行なわれた。1889(明治22)年には、この日を期して、短期間で停止されたオスマン帝国憲法(1876[明治9]年に発布された、オスマン帝国[小アジアとも呼ばれる、西アジアのアナトリア半島と、東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、現在のトルコ共和国の前身]における成文憲法を除けば、実質上のアジア初の近代憲法である大日本帝国憲法が、第122代天皇、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅(天皇が公務で行なった意思表示)」が出されると共に発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。
万歳三唱の日。
1889(明治22)年、大日本帝国憲法(明治憲法、帝国憲法)発布の記念式典で、初めて万歳三唱が行なわれた。天皇への祝意を表わすものとして明治政府が万歳を奨励した。万歳とは、喜びや祝いを表わす動作等を指していう言葉で、動作を表わす場合は、「万歳」の語を発しつつ、両腕を上方に向けて伸ばす。また、より強調して、「万々歳(ばんばんざい)」と言われる場合もある。元々は中国で使用される言葉であり、「千秋万歳」の後半を取ったものである。万歳は、一万年で皇帝の寿命を示す言葉であり、本来、皇帝に対して以外では使わなかった。日本においては、まず平安時代に成立した雅楽(日本古来の音楽や舞、平安時代に新しく作られた歌曲を含めた総称)には、千秋楽(複数日に亘って同じ演目を行なう興行において、「最終日」を指す業界用語)と共に万歳楽(まんざいらく)という曲が伝えられており、共に君主の長久を祝うめでたい曲とされている。芸能の万歳は、ここから出たものという。「バンザイ」と発音するようになったのは、大日本帝国憲法発布の日に、陸軍青山練兵場(跡地は、現在の東京都新宿区と港区に跨る明治神宮外苑となっている)での臨時観兵式に向かう第122代天皇、明治天皇の馬車に向かって、万歳三唱したことが最初とされる。それまで日本には、天皇を歓呼する言葉がなく、出御に当たって、ただ最敬礼するのみであったが、東京帝国大学(現在の東京大学の前身)の学生一同で、皇居前に並んで明治天皇を奉送迎しよう、という議が起こり、これに際して、最敬礼では物足りないので歓呼の声を挙げよう、という話が、教師の間で持上がった。そこで、フランス語の「ヴィヴ・ラ・フランス」や英語の「セーヴ・ザ・キング」のような、唱和の言葉を考えることになり、法学者・経済学者でもある帝国大学法科大学(1886[明治19]年に、東京帝国大学法政学部が改称されたもの)教授和田垣謙三の提議した「万歳、万歳、万々歳」の唱和が決められた。