2月7日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

長野の日(オリンピックメモリアルデー)(続き)。  
1998(平成10)年2月17日、悪天候の中で、スキージャンプ団体戦は行なわれた。ジャンプの団体戦は、各国4人の選手が4人ずつ飛び、その合計点で争われる。ジャンプ台から120mの距離には、K点と呼ばれる飛距離の基準点がある。メダル獲得には、このK点を超えるところまで大きく飛び、どれだけポイントを稼ぐかが重要となる。当時最強のメンバーを揃えた日本代表は、団体初の金メダルを狙い、国民の期待を一心に集めていた。岡部孝信と斉藤浩哉は、共にK点超えの大ジャンプを決め、日本は早くもトップに立った。続く原田雅彦の1本目は失敗に終わる。1994(平成6)年に開催された長野オリンピックの前回大会、リレハンメルオリンピック(第17回オリンピック冬季競技大会)で、団体日本チームは最終ジャンパーの原田雅彦が105m以上飛ぶことができれば、つまり、余程の失敗ジャンプをしなければ優勝が決まる筈であったが、結果は97.5mという記録で2位に終わった。その「リレハンメルの悪夢」が再び起こってしまう。日本は、トップから4位に順位を下げてしまった。さらに、天候が悪化し、競技は中断に追込まれた。再開か、中止か、それを決めるため、テストジャンパーにジャンプしてもらうことになった。25名のテストジャンパー達は、悪天候の中で1人の転倒者も出すことなく試技を続け、競技再開が可能なことを証明した。最後に飛んだテストジャンパーのスキージャンプ元日本代表、西方仁也は、代表選手をも超える大ジャンプを決める。飛距離はK点超えの123mであった。暫定4位の日本が金メダルを獲得するには、120m地点にあるK点を超え、得点を稼ぐ必要がある。団体日本チームの2本目のジャンプが始まった。1番目の岡部孝信と2番目の斉藤浩哉は、共に1本目に続くK点を超えた大ジャンプを決める。そして、3番目の原田雅彦。「両足を複雑骨折してもいい」との覚悟で137mという大ジャンプを決め、決して飛型点の高い美しいジャンプではなかったが、金メダルへの立役者となった。トップに躍り出た日本の最後のジャンパーは船木和喜。上位3ヶ国の競技は既に終了、日本が金メダルを獲得するには、115m以上飛ぶ必要があった。船木和喜は、125mの大ジャンプを決め、日本は悲願の金メダルを獲得した。原田雅彦は、金メダル獲得後に「「俺じゃないよ、みんななんだ、みんな」と話している。この「みんな」は、岡部孝信、斉藤浩哉、船木和喜の3名のチームメイトのことでもあり、悪天候の中、命の危険も顧みずに競技再開可能を証明した25名のテストジャンパー達のことでもあった。1991(平成3)年に長野オリンピック開催が決定したことにより、上信越・北陸地方を経由して、東京都と大阪市とを結ぶ計画の高速鉄道路線(新幹線)、北陸新幹線が、現存する在来線(信越本線、現在のしなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線(新幹線規格[フル規格]の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改軌した上で、新幹線路線と直通運転[新在直通運転という]できるようにした方式)規格から、軽井沢駅と長野駅との間で、新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。元々、北陸新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989(平成元)年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の、高崎駅と軽井沢駅との間のみが建設されていた。軽井沢駅と長野駅との間がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが、長野県小諸市と長野県佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には、小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定であったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市を、フル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。その他の影響として、1994(平成6)年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原(長野県下高井郡山ノ内町にある上信越高原国立公園の中心部を占める高原)への人員輸送に伴なう列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現在の長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化される。また、1997(平成9)年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。東日本旅客鉄道(JR東日本)が製造・保有した新幹線電車で、1982(昭和57)年に開業した東北新幹線・上越新幹線の初代営業用車両、新幹線200系電車は、オリンピック期間中のみ列車増発のため、時速240km走行対応で、30‰急勾配登坂モーター、発電ブレーキ容量増大・交流電源周波数50Hz/60Hz切替装置を搭載する等の改造を施したF80編成が、北陸新幹線(北陸新幹線が長野駅まで開業した際は、長野新幹線と呼ばれた)で運転された。交流電源周波数切替装置は、臨時輸送終了後の1998(平成10)年11月までに撤去され、軽井沢以西への乗入れは不可能となり、編成としては、2004(平成16)年6月18日付けで廃車となった。新幹線200系電車自体も、新型車両の増備により、2013(平成25)年3月15日限りで定期営業運転を終了し、同年6月までに全車が廃車となった。なお、新幹線200系列の廃車によって、国鉄(日本国有鉄道)時代に製造された新幹線電車が、本線上から全て姿を消している。長野オリンピックの大会マスコットは、森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ(SNOWLETS)」という名前の由来は、冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子どもたち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼掛ける言葉「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。1羽ずつそれぞれに、「スッキー」「ノッキー」「レッキー」「ツッキー」という名前も付けられていた。4羽は、スッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置付けがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれたが、オリンピック本番では4羽とも大人気となった。長野オリンピックの公式テーマソングは、1997(平成9)年に日本放送協会(NHK)のテレビ番組『みんなのうた』で放送された「WAになっておどろう」で、公式テーマソング名は「WAになっておどろう~イレアイエ~」となり、「スノーレッツ (SNOWLETS)」のテーマソングという位置付けであった。謎の地底人集団を名乗るバンド、AGHARTAによる「WAになっておどろう」は、『みんなのうた』での放映が反響を呼んだ。1998(平成10)年2月22日、長野オリンピック閉会式式場にAGHARTAが突如現れ、前代未聞の生演奏を敢行し、世間を驚かせた。大手芸能事務所、ジャニーズ事務所(現在のSMILE-UP.)に所属する男性アイドルグループ、V6がカバーした「WAになっておどろう」も大ヒットし、小学校のダンス授業等に使われることも多い。公式イメージソングは、シンガーソングライターの杏里による「SHARE 瞳の中のヒーロー」、公式メッセージソングは、シンガーソングライターのさだまさしによる「Dream~愛を忘れない~」であった。長野オリンピックでは、ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡った後に、長野県内の全ての市町村をリレーされ、長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。これは、トーチの欠陥により、トーチを傾け過ぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。