2月7日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1水曜日 旧暦 12月28日、先負(辛丑)、月齢 26.6  
グレゴリオ暦で年始から38日目、年末まであと328日。
誕生花 ヒヤシンス・アカメヤナギ・ウメ・オレアリア・ワスレナグサ。

長野の日(オリンピックメモリアルデー)。
1998(平成10)年2月7日、長野オリンピック(第18回オリンピック冬季競技大会)の開会式が行なわれたことを記念して、社団法人日本青年会議所北陸信越地区長野ブロック協議会が、同1998(平成10)年に制定。長野オリンピックの理念が「自然との共生」であることから、オリンピック後に長野の自然を考える日にとしたもの。東京都千代田区平河町に所在する日本青年会議所は、青年経済人の社会活動を目的とする日本各地の青年会議所(20歳から40歳までの青年経済人が組織する団体)を会員として組織される社団法人で、2010(平成22)年7月1日に公益社団法人となった。青年会議所は、地域社会に根差したボランティア活動が主体で、地域開発、経済問題、教育問題、国際交流の他、地域活性化を狙いに、地方行革、規制緩和、地方分権、町づくり運動等、幅広い地域活動を展開し、地域社会のオピニオン・リーダー的役割を果している。長野オリンピックは、2月22日まで開催された20世紀最後の冬季オリンピックで、冬季オリンピックとしては、最も南に位置する都市で開催された。72の国(地域)から選手・役員4,638名が参加し、延べ約144万2,700名の観客が会場に集った。日本での冬季五輪の開催は、1972(昭和47)年の札幌オリンピック(第11回オリンピック冬季競技大会)以来26年振り2度目であった。なお、1940(昭和15)年に「アジア初の夏季オリンピック」として開催される予定であった、東京オリンピック(第12回オリンピック競技大会)の開催と同年に、「アジア初の冬季オリンピック」としての札幌での開催が決定していたものの、1937(昭和12)年に勃発した日中戦争の激化を受けて、東京での開催と共に日本政府が開催権を返上してしまった。冬季の場合は、夏季と異なり非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる。開会式は午前11時にスタート。長野市の長野市営南長野運動公園総合運動場野球場(長野オリンピックスタジアム)で行なわれた。善光寺(長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになり、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置付けられている)の鐘の音を合図にスタートし、御柱の建御柱(長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある諏訪大社の祭で、諏訪大社における最大の行事となっている、山中から御柱として樅の大木を16本切出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で4ヶ所の各宮まで曳行し、社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭)、大相撲幕内力士の土俵入り、第64代横綱曙太郎の土俵入りが行なわれ、1960年代後半から1970年代にかけてヒット曲を数多く生んだ歌手、森山良子と子ども達により、長野オリンピックテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。選手入場はオリンピック憲章に則り、ギリシャを先頭にアルファベット順に行なわれた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク、シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるドイツの作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲の交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏と合唱であった。指揮は世界的な指揮者、小澤征爾が行ない、この合唱は、会場の観客や選手を含む全員が参加し行なわれるというオリンピック史上初の試みであった。さらに、演奏終了に合わせて、航空自衛隊の曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)、第4航空団飛行群第11飛行隊(通称:ブルーインパルス)が会場上空で展示飛行を行なった。開催国の日本は、金メダル5個、銀メダル1個、銅メダル4個の計10個のメダルを獲得した。スピードスケート競技では、清水宏保が男子500mで金メダル、男子1,000mで銅メダルを、女子500mで岡崎朋美が銅メダルを獲得した。1993(平成5)年2月、毎年9月から12月、そして翌年3月にかけて、世界各国を転戦する国際スケート連盟(ISU)主催のスピードスケート大会、ISUスピードスケート・ワールドカップに18歳で初出場し、初優勝という快挙を達成する等して、小柄な世界トップスケーターとして注目を集めた清水宏保は、500mで日本のスピードスケート選手としては初となる金メダル、1,000mでも銅メダルを獲得し、長野オリンピック直後の1998(平成10)年4月、日本で初めての「プロ」(スピード)スケーターとなることを宣言する。複数の企業とスポンサー契約を交わすプロアスリート活動を始め、日本スケート界を牽引するようになる。ショートトラックスピードスケート競技では、西谷岳文が男子500mで金メダル、植松仁が銅メダルを獲得した。フリースタイルスキー競技のモーグル女子で、里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。スピードスケートでは、プレシーズンにスラップスケート(氷を蹴る時にかかと部分で刃が離れ、キックした後にバネ仕掛けで戻る仕組みとなっているスケート靴)が登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、氷質の良好さ等から世界でも有数の高速リンクと言われる、長野市オリンピック記念アリーナ(エムウェーブ)の高速リンクと相まって、世界新記録が連発した。大会2日目に行なわれた男子5,000mでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回った。屋外競技は、全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が変更され、スキージャンプ団体戦は競技が一時中断された。長野県北安曇郡白馬村にあるスキージャンプ競技場、白馬ジャンプ競技場で行なわれたノルディックスキージャンプ競技では、日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木和喜)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得した。白馬ジャンプ競技場の正式名称は、ラージヒルが長野県白馬ジャンプ競技場、ノーマルヒルが白馬村ジャンプ競技場で、ラージヒルは白馬村が指定管理者となっており、全施設を白馬村が管理・運営している。白馬ジャンプ競技場は、日本で唯一、ノーマルヒル、ラージヒル用のジャンプ台が2つ並んでいるジャンプ競技場であり、長野オリンピックのジャンプとノルディック複合ジャンプの競技会場として利用された。オールシーズン、スキージャンプが可能な競技場である。白馬村がノーマルヒル、長野県がラージヒルとそれ以外の施設を受持ち、1987(昭和62)年に基本設計を行なった。約6年の歳月をかけ、総工費約85億円で、1992(平成4)年11月に躯体施設工事が、翌1993(平成5)年11月にサマージャンプ台工事が完了した。一般客も、リフトと展望エレベータでスタート地点に登ることができ(大会開催時とリフトの点検運休[4月1日から1週間、12月1日から12月中旬]を除く)、スタート観覧ステージから、選手と同様の視点でジャンプ台を見学することもできる。