2月4日 できごと その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1974年 - アメリカの左翼過激派組織、シンバイオニーズ解放軍(SLA)が、パトリシア・ハーストを誘拐する。パトリシア・ハーストは1954年、アメリカ合衆国西部、カリフォルニア州サンフランシスコの新聞社『サンフランシスコ・エグザミナー』社長、ランドルフ・アパーソン・ハーストの三女として生まれる。裕福な環境の下、何不自由なく育つ。1974年2月4日午後9時20分、当時19歳でカリフォルニア大学バークレー校2年生であったパトリシア・ハーストは、家出して恋人と高級アパートに一緒にいたところを、武装した2人組に襲われ、連れ去られる。その3日後、犯人グループのシンバイオニーズ解放軍(SLA)より、地元ラジオ局に犯行声明が届く。シンバイオニーズ解放軍(SLA)は、パトリシア・ハーストの身柄を解放する代わりに、「カリフォルニア州の貧民6万人にそれぞれ70ドル分の食料を与える」ことを要求する。同年4月15日、シンバイオニーズ解放軍(SLA)のメンバーは、サンフランシスコ北部にあるハイバーニア銀行サンセット支店を襲撃。この際、銀行の防犯カメラに誘拐された筈のパトリシア・ハーストが、犯人グループと共に、ライフル銃を持って強盗を行なっている様子が写る。この映像は、マスコミを通じて広く報道され、全米は騒然となる。同年5月17日、連邦捜査局(FBI)がシンバイオニーズ解放軍(SLA)のメンバーのアジトを急襲し、犯人6名を射殺する。パトリシア・ハーストは、他のメンバーと外出していたため、難を逃れ、そのまま逃亡する。翌1975年9月18日、サンフランシスコで連邦捜査局(FBI)がパトリシア・ハーストを逮捕し、1年以上に及ぶ逃亡生活は終焉を迎える。逃亡中のパトリシア・ハーストは、組織の同志になったことを宣言していたが、1976年2月に裁判が始まると、パトリシア・ハーストは態度を豹変させ、無罪を主張する。裁判では有罪となり、懲役35年の判決が下されるが、アメリカ合衆国第39代大統領ジミー・カーターによる特別恩赦で釈放される。パトリシア・ハーストは出所後、積極的に社交の場に登場し、事件に関するインタビューも進んで受けている。
1975年 - 海城大地震。中国東北部、遼寧省海城市一帯で表面波マグニチュード(Ms)7.3の地震が発生。人的被害の正確な数は不明で、中国の国営通信社、新華社(中国の一般ニュースを海外向けに配信する他、政府要人の発言を独占的に配信することも多い)の報道では、死者は2,041名とされるが、死者1,328名という資料もある。
1976年 - インスブルックオリンピック(第12回オリンピック冬季競技大会)開催。2月15日まで。開催都市は、オーストリア西部にある風光明媚な観光地、インスブルック。インスブルックでの開催は、1964年(第9回オリンピック冬季競技大会)以来2回目の開催となる。前回の札幌オリンピック(第11回オリンピック冬季競技大会)での活躍から、期待が集まっていた日本選手の最高位は、スピードスケート500m女子の長屋真紀子の7位がやっとで、結局メダル獲得はおろか、6位以内の入賞者さえもゼロという惨敗となる。札幌オリンピック(第11回オリンピック冬季競技大会)で金メダルを獲得した笠谷幸生は、70m級で16位、90m級では17位となり、銀メダルを獲得した金野昭次は、日本代表に選ばれたが、70m級、90m級とも、出場する4選手にはエントリーされずに終わっている。 
1976年 - アメリカ合衆国上院、外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社(現在のアメリカ合衆国の航空機・宇宙船等を開発製造する企業、ロッキード・マーティン社の前身の1つ)の日本政府高官への贈賄が発覚。ロッキード事件(アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注を巡って、1976年2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件)の発端となる。ロッキード事件は、国内航空大手の全日本空輸(全日空)の新しいワイドボディ旅客機(客室1階に通路が2本ある機体)導入選定に絡み、自由民主党(自民党)衆議院議員で元首相、田中角栄が、1976年7月27日に受託収賄罪(公務員が、請託を受けて、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求、若しくは約束をした時は、7年以下の懲役に処される、「刑法[明治40年4月24日法律第45号]」第197条第1項後段に規定された罪)と、「外国為替及び外国貿易管理法(現在の名称は外国為替及び外国貿易法、外為法、昭和24年12月1日法律第228号)」違反の疑いで逮捕され、その前後に、元首相田中角栄以外にも、佐藤孝行運輸政務次官(当時)や元運輸大臣(現在の国土交通省の前身の1つ、運輸省の長)橋本登美三郎と、2名の政治家が逮捕される。さらに、収賄、贈賄双方の立場となった全日本空輸(全日空)の若狭得治社長(当時)以下、数名の役員や社員、ロッキードの販売代理店の丸紅(大手総合商社)の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団や、外国での諜報を行なうアメリカ合衆国の情報機関、中央情報局(CIA)とも深い関係にあった右翼運動家の児玉誉士夫や、児玉誉士夫の友人で「政商」と呼ばれた、国際興業(バス事業を中心とした企業)社主の小佐野賢治(第二次世界大戦の戦時体制下では、軍需産業強化の必要性のため、1943年11月1日、昭和の前半期に商工業の奨励・統制を担った国家機関、商工省の大半と、戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関、企画院の国家総動員部門を統合して設置された省、軍需省に取入って蓄財し、日本の敗戦後には、駐留外国人相手の事業で成功しており、運輸・観光事業も手広く行ない、日本国内の有名ホテルを複数買収した他、太平洋の中央部の洋上に位置する、ハワイの観光資源に逸早く注目して、州都ホノルル市があるオアフ島南部に位置し、ハワイにおける観光の中心地となったワイキキの、名門ホテルを多数手中にする等して、「ホテル王」と呼ばれたこともある他、有力な政商として知られ、政財界と暴力団の橋渡しを行なっている等との噂から、「裏世界の首領」や「黒幕」等と揶揄されることもあった)と相次いで逮捕者を出す。また、関係者の中から、多数の不審死者が出る等、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となる。この事件は、1976年2月にアメリカ議会上院で行なわれた上院外交委員会多国籍企業小委員会(フランク・チャーチ委員長の名から「チャーチ委員会」)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展している。  
1978年 - 東大宇宙航空研究所(現在の宇宙航空研究開発機構[JAXA]の一部、宇宙科学研究所)が、宇宙観測衛星「きょっこう」を打上げる。「きょっこう」は、主にオーロラ(天体の極域近辺に見られる大気の発光現象)を観測することを目標に開発され、オーロラに関連する磁気圏、プラズマ圏、電離層も観測対象となっている。名前は、オーロラを意味する「極光」に由来する。科学衛星打上げ用の3段式の固体燃料ロケット、M-3Hロケット2号機によって打上げられ、近地点約641km、遠地点約3,978km、軌道傾斜角約65.3°の軌道に投入されて、2月24日から観測を開始する。観測データの取得率を上げるため、鹿児島県肝属郡肝付町(旧鹿児島県肝属郡内之浦町)にある日本の宇宙空間観測施設・ロケット打上げ施設、内之浦宇宙空間観測所の他に、カナダ中部にあるチャーチル(秋に内陸部から海岸へと移動する、多くのホッキョクグマ[シロクマ]が周辺で見られることで非常に有名であり、そのことから、「ホッキョクグマの首都」というニックネームを持ち、観光産業が成長している)と、南極の昭和基地(南極大陸のリュツォ・ホルム湾東岸にある島、東オングル島にある日本の観測基地)でもデータの受信を行なっており、1992年8月2日、「きょっこう」は運用を終了する。   
1980年 - 西アジア・中東に位置するイランで、最高指導者(師)ルーホッラー・ホメイニーの指名により、経済学者で、反政府運動家であったアボルハサン・バニーサドルが、イスラム共和制初代大統領に就任する。