2月1日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第1木曜日 旧暦 12月22日、先負(乙未)、月齢 20.6  
グレゴリオ暦で年始から32日目、年末まであと334日。
誕生花 梅・サクラソウ・マーガレット。

二月礼者。
仕事の関係等、訳があって正月に年始回りをできなかった人が、2月1日に年賀に回る風習。昭和時代、第二次世界大戦前から1960年代ぐらいまで、芝居、演劇関係や料理屋等の職種の人達は、新年は特に多忙で、回礼の暇がないため、月後れのこの日に行なう風習が残っているという。二月礼者は、初春の季語となっている。 
重ね正月、一夜正月。
生まれた時点、基点となる最初の年を「1歳」、「1年」とし、それ以降は、元日(1月1日)を迎える毎にそれぞれ1歳、1年ずつを加える数え年では、正月に年令が変わるが、この日は正月後最初の朔日であることから、2度目の正月として、厄年の人に仮に1つ歳を取らせ、早く厄年をやり過ごそうとする風習が広く行なわれていた。なお、厄年とは、厄災(災難)が多く降り掛かるとされる年齢のことである。平安時代には既に存在し、科学的な根拠が不確かで、起源も曖昧ではあるが、根強く信じられている風習である。通常は、厄年の年齢には数え年を用いる。男性と女性の厄年は異なり、本厄は男性の場合は、数え年で25歳、42歳、61歳、女性の場合は19歳、33歳、37歳とされている。特に、男性の42歳、女性の33歳は大厄と呼ばれ、凶事や災難に遭う率が非常に高いので、十分な警戒を要するとされている。いずれの厄年にも、その前後1年間に前厄(厄の前兆が現れるとされる年)・後厄(厄のおそれが薄らいでいくとされる年)の期間があり、本厄と同様に注意すべきとされる。また、地域や宗派等によっては、61歳の還暦を男女共通で厄年とする場合もある。語呂合わせでも、男性の42歳は「死に」、女性の33歳は「散々」に通ずる。  
テレビ放送記念日。
1953(昭和28)年2月1日、日本放送協会(NHK)の施設であるNHK東京放送会館が、日本初のテレビの本放送(地上アナログテレビ)を開始した。1953(昭和28)年2月1日午後2時、東京都千代田区内幸町のNHK東京放送会館から「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第1声が放送された。また、都内7ヶ所で一般公開され、開局祝賀会の模様や舞台中継、ニュース、映画等が放送された。当時の受信契約数は866台、受信料は月200円であった。その年の8月には日本テレビ、翌1954(昭和29)年3月にNHK(日本放送協会)大阪と名古屋、1960(昭和30)年4月にラジオ東京(現在の東京放送[TBS])でもテレビ放送が開始された。NHK東京放送会館は1955(昭和30)年に増築が行なわれ、隣接して多目的ホール『NHKホール(初代)』も併設された。『NHKホール(初代)』は、クラシック音楽番組『立体音楽堂』や『歌のグランド・ショー』等の生放送に使われたが、男女対抗形式の大型音楽番組『NHK紅白歌合戦』の会場に使うには手狭であったため、内幸町に程近い東京都千代田区有楽町にある劇用『東京宝塚劇場』等から放送していた。NHK東京放送会館の所在地は内幸町であったが、東京都電車の田村町1丁目停留所からも近く、当時は「田村町」と呼ばれることも多かった。東京都渋谷区神南にある現在のNHK放送センターでは、全国ネットワーク番組の大半が制作・発信されている他、関東甲信越地方向けブロック放送の拠点も兼ねている。衛星放送を行なう衛星放送局と、日本国外向けの国際放送(NHKワールドTV・NHKワールド・ラジオ日本)を行なう国際放送局がある。NHK放送センター内には、一般テレビ番組用だけでも25のスタジオがあり、テレビ局が保有する数としては日本最大である。所在地は、かつての日本占領アメリカ空軍の兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」の一部である。「ワシントンハイツ」は、アメリカ空軍、及びその家族のための団地である。兵舎の他、駐留軍人とその家族が暮らすための827戸の住宅、さらに学校、教会、劇場、商店、将校クラブ等が設けられていた。「ワシントンハイツ」は1964(昭和39)年に日本に返還され、跡地に選手村、代々木競技場等と共に建設された場所が、東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)の放送センターであった。これは、東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)後正式に日本放送協会(NHK)の本部施設として位置付けられ、10年近くかけて日比谷地区にあったNHK東京放送会館から引越しを進めていった。NHK東京放送会館は、再開発のため1978(昭和53)年)に取壊され、跡地にはショッピングモールやオフィスビル群からなる再開発地区『日比谷シティ』が1981(昭和56)年に竣工した。日本のテレビの父と呼ばれる工学者、高柳健次郎は、1926(昭和元)年12月25日、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部の前身)で、ブラウン管(電気信号を光に変換し、人間の目に見える像を発生させる装置)による電送・受像を世界で初めて成功した。送像側に機械式のニプコー円板(機械式画像走査器具)と受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本であった。「イ」の字は、いろは順の最初の文字として選んだ。1937(昭和12)年、日本放送協会(NHK)に出向し、東京オリンピック(第12回オリンピック競技大会)のテレビ放送を目指して、テレビ受像機の研究を本格的に開始。しかし、1938(昭和13)年に日中戦争が激化する等で、東京オリンピック(第12回オリンピック競技大会)は中止となり、テレビの研究も中断させられ、レーダー等の研究をすることになる。第二次世界大戦終戦後、日本放送協会(NHK)に戻ってテレビの研究を再開するが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により、テレビの研究を禁止させられた。その後、高柳健次郎は1946(昭和21)年には、映像機器・音響機器・記録メディアを主製品とする電機メーカー、日本ビクター(2011[平成23]年、JVCケンウッドに吸収合併される)に弟子と共に入社。高柳健次郎自身が中心となり、日本放送協会(NHK)や大手電機メーカーのシャープ、及び東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。1951(昭和26)年、アメリカの軍事戦略の1つとして、占領国でのテレビ放送利用を重要視していたアメリカの圧力により、アメリカ式の技術標準が日本で採用される。1953(昭和28)年1月、大手電機メーカーのシャープが国産第1号のテレビを発売した。価格は175,000円(現在の貨幣価値に換算すると、約7,000,000円程度)であった。そして、1953(昭和28)年2月1日にテレビ放送は開始された。当時の主な番組は、大相撲、プロレス、プロ野球等のスポーツ中継や記録映画等であった。テレビ受像機の価格が非常に高価(約20万円から約30万円程度)で一般人には買えないため、多くの大衆は、繁華街や主要駅等に設置された街頭テレビや、土地の名士等の一部の富裕世帯宅、或いは、喫茶店やそば屋等が客寄せに設置したテレビを見ていた。日本でテレビ受像機が一般に普及し始めるのは、1960年代初頭頃のこととなる。