1月30日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

3分間電話の日。
1970(昭和45)年1月30日、日本電信電話公社(電電公社、現在の日本の通信事業最大手、日本電信電話株式会社[NTT]、NTTグループの前身)による公衆電話の市内通話料金が、3分で10円になった。それまで1通話10円で、時間は無制限であった。3分間で10円という制限は、長電話防止のために始められたものとされる。現在は携帯電話の時代であるが、この時代にはテレホンカードも、100円硬貨の使える黄電話もなかった。市内通話とは、単位料金区域(MA)内相互間の固定電話による通話のことである。単位料金区域(MA)は、固定電話が市内通話料金で相互通話できる区域で、隣接する市町村等、社会的・経済的に結び付きが強く、区域内通話の多い地域が指定されている。1960年代は、加入電話からの市内通話は時間無制限で、1回当たり7円であった。しかし、公衆電話での長話を防止するために、この日から東京都心部を皮切りに、公衆電話からの市内通話「3分打切り」が順次開始された。1972(昭和47)年11月には、広域時分制の導入で市内通話と準市内通話とが統合され、加入電話からの区域内通話は3分で7円となり、1976(昭和51)年11月からは物価の上昇に伴ない、加入電話からも3分で10円となった。なお、1900(明治33)年9月11日、日本初の自動公衆電話が東京の新橋駅と上野駅、熊本市内に設置された。「公衆電話記念日」は、日本電信電話株式会社(NTT)が、これを記念して9月11日としている。
タビナカの日。
東京都渋谷区広尾に所在する、「地球はもっと楽しくなる」をビジョンに、海外現地オプショナルツアー・アクティビティの予約サイト「タビナカ」を運営する企業、株式会社タビナカが制定。地球上の絶景、珍しい動物との触合い、美味しい料理や文化体験等、人生を豊かにする旅を、より多くの人に体験してもらうことが目的。日付は、1月30日の「1」と「30」を「130」として、「い(1)ざ(3)地球(0)を楽しもう」と読んで。この地球は、美しさで満ち溢れている。自然が織りなす絶景、人類が創った建造物。地球上にはまだ、掘り起こされていない素晴らしい観光資源が沢山ある。株式会社タビナカは、そんな感動体験に、誰もが安心してアクセスできるサービス創りに取組んでいる。
おからのお菓子の日。
栃木県足利市大月町に本社を置き、大麦に関する食品の製造販売等を行なう企業、株式会社大麦工房ロアが制定。美容や健康、便秘改善等にも良いとされるイソフラボン、大豆サポニン、大豆オリゴ糖の入った、おからを原料とした自社のお菓子を、多くの人に食べてもらうことが目的。日付は、1月30日の「1」と「30」で、「イソフラボン(1)」「大豆サポニン(3)」「オリゴ糖(0)」を並べた語呂合わせから。大豆から豆腐を製造する過程で、豆乳を絞った際に残る「かす」、「おから」は、茶殻の「がら」等と同源の「から」に、丁寧語の「御」を付けたもので、女房言葉の1つである。他の呼び方として、主に、関東では、白いことから「卯の花(うのはな)」、主に、関西・東北では、包丁で切らずに食べられるところから「雪花菜(きらず)」等と呼ばれる。食物繊維を多く含み、火を通して食べることが多い。値段は極めて安価で、庶民的な食品ながら、たんぱく質や脂肪等を多く含み、栄養価は非常に高い。
節々の痛みゼロを目指す日。
東京都江戸川区下篠崎町に本院を置く、あしすと訪問リハビリ鍼灸マッサージ院を運営する企業、有限会社ひまわりが制定。日付は、1月30日の「1」と「30」で、「痛みゼロ(いた[1]み[3]ゼロ[0])」と読む語呂合わせから。自力で通院できない人の自宅に訪問し、鍼灸・あん摩マッサージ指圧等の施術(リハビリテーション)を行なうあしすと訪問リハビリ鍼灸マッサージ院。高齢者を中心に。節々の痛みに苦しんでいる人々のことを理解し、分かち合い、痛みが少しでもゼロに近付き、快方に向かうように願う、優しい社会を目指すことが目的。あしすと訪問リハビリ鍼灸マッサージ院は、江戸川区を中心に。人と地域に密着した活動をしている。元気になりたいけど痛くて病院に行けない人、個人で気軽に自分に合ったリハビリを続けたい人、自分の力で生活できるようになりたい人等が利用している。訪問マッサージには、通院介助が必要ない、期間・回数の制限がない、併用利用が可能、国家資格者が担当、介護予防に効果的等のメリットがある。また、痛みの改善、関節の動きの向上、動作機能の回復等の効果が期待できる。
西南戦争(西南の役)。
1877(明治10)年、現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱、西南戦争(西南の役)は、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、現在でも日本国内で最後の内戦である。鹿児島では「丁丑戦」として語られている。朝鮮使節派遣の中止が決定し、征韓論派が敗れた明治六年政変で下野した、元薩摩国/大隅国薩摩藩藩士で陸軍軍人・政治家の西郷隆盛は1874(明治7)年、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷隆盛と共に下野した不平士族達を統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒をヨーロッパへ遊学させる等、積極的に西欧文化を取入れており、外征を行なうための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがて、この私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力の元で、県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。一方、近代化を進める中央政府は、1876(明治9)年3月28日に「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(廃刀令、明治9年3月28日太政官布告第38号)」、同年8月5日に「金禄公債証書発行条例(明治9年8月5日太政官布告第108号)」を発布した。この2つは帯刀、及び俸禄の支給という、旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的、かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同1876(明治9)年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こった。私学校設立以来、政府はその威を恐れ、早期の対策を行なって来なかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関とする見解である。そして、私学校の内部偵察と離間工作のために、警視庁大警視川路利良(元薩摩国/大隅国薩摩藩藩士で、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」と呼ばれる警察官僚・陸軍軍人)は、元薩摩国/大隅国薩摩藩藩士であった中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣した。1877(明治10)年1月29日、政府は、鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に搬出を行なった。この搬出は、スナイドル銃(イギリス製の後装式[銃砲の装填方式を2つに大別した1つで、銃砲身の尾部から砲弾と装薬を装填する方式]ライフル銃)の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であった。陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩国/大隅国薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。私学校の生徒達は、政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出したことに怒ると共に、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するため、1月30日以降、鹿児島各地にある火薬庫を襲って武器類を奪取した。1月30日、私学校幹部らは会合し、警視庁帰藩組の帰郷が、西郷隆盛暗殺を目的としていると聞いた。暗殺計画の噂で沸騰する私学校の生徒達は、中原尚雄らを捕縛して苛烈な拷問を行なった。川路利良大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」が取られ、多くの私学校の生徒は激昂して暴発状態となった。2月5日に私学校幹部、及び分校長ら200余名が集合して大評議が行なわれ、今後の方針が話合われた。大評議は諸策百出して紛糾したが、全軍出兵論が多数の賛成を得た。2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。2月12日頃に一応の準備が整えられ、薩軍総指揮官には西郷隆盛が就いた。2月15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発し、以後順次大隊が鹿児島を出発した。西郷軍が熊本城下に着かない内に、既に政府側は征討の詔を出し、西郷軍の邀撃(迎え撃つこと)に動き出していた。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して、政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり、西郷軍が動き出して僅か4日で、熊本城を包囲する2日前であった。このことから、明治政府の対応の速さの背景には、電信等の近代的な通信網が既に張り巡らされていたことが分かる。明治政府は、皇族の有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には、元周防国/長門国長州藩藩士の山縣有朋陸軍中将と、元薩摩国/大隅国薩摩藩藩士の川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷隆盛に対抗して、権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官とせず、同じ中将の2人を副官に据えることで、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。また、薩摩と長州の均衡をとり、西郷隆盛の縁戚である川村純義を加えて、薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。