1月30日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西南戦争(西南の役)、続き。
2月20日、西南戦争の実戦が始まった。薩軍は、熊本城を包囲強襲し、政府軍は熊本城を中心に守備兵を配置して防戦した。薩軍は少ない大砲と装備の劣った小銃で、堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する政府軍を攻める等、無謀この上もない作戦を採用した。2月24日に至る薩軍の攻撃は悉く失敗しただけでなく、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗し、2月24日以後は両軍の対峙状態に陥った。そこで、薩軍は南下してくる政府軍、また上陸してくると予想される政府軍等に対処するために、熊本城強襲策を変更して長囲策に転じた。そして、熊本近辺の各地で激しい戦闘が行なわれた。3月1日から3月31日まで、現在の熊本市北区植木町では、田原坂・吉次峠の激戦が繰広げられた。薩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に苦戦した政府軍は、田原坂の堅い防衛線を突破するために大規模な砲撃を行ない、薩軍の防衛線を破った。この田原坂・吉次峠の激戦は、西南戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上経過した現在でも、現地では当時の銃弾が、田畑や斜面からしばしば発見されている。薩軍では、副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹を始め、勇猛の士が次々と戦死した。政府軍も3月20日の戦死者だけで495名に上った。田原坂の激戦は、政府軍の小隊長30名の内、11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、政府軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏出した。城中の糧食が尽きるのを待って陥落させる、という長囲策を採る薩軍が対砲戦を主としたので、守城側はそれに苦しんだ。しかし、長引くにつれて長囲軍の兵力は減少し、4月13日には、政府軍の衝背軍と守城軍が合流を成功させ、薩軍の長囲策は破綻した。薩軍は、現在の熊本市の南に当たる地域に20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する政府軍を迎え撃ち、政府軍を全滅させる作戦を採ることにした。4月19日と4月20日に政府軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。この「城東会戦」は、関ヶ原の戦い以来最大の野戦であったが、僅か1日の戦闘で敗れた薩軍が撤退し、決着が付いた。政府軍の6月からの本格的反撃で、薩軍は徐々に劣勢に追込まれていった。9月1日頃までは、鹿児島の情勢は大きく薩軍に傾いており、住民も協力していたことから、薩軍は鹿児島市街をほぼ制圧していたが、9月3日には政府軍が形勢を逆転し、9月6日、城山包囲態勢を完成させた。西南戦争(西南の役)が最終局面に入った9月24日、政府軍の総攻撃が始まった。西郷隆盛も股と腹に被弾し、ついに切腹して果てた。西南戦争(西南の役)の参加兵力は、政府軍が約70,000名、薩軍が約30,000名、政府軍死者は6,403名、薩軍死者は6,765名に及んだ。西南戦争(西南の役)による多数の負傷者を救護するために、元肥前国佐賀藩(鍋島藩)藩士で、明治初期の日本の立法機関である元老院の議官(元老院を組織した議員)であった佐野常民と、元信濃国田野口藩藩主で、同じく元老院議官であった大給恒らが、敵味方の区別なく救護を行なう、国際赤十字の精神を発現する博愛社(日本赤十字社の前身)の設立を請願した。日本赤十字社(日赤)は、日本における赤十字社(戦争や天災時の傷病者救護活動を中心とした人道支援団体)である。1952(昭和27)年に制定された「日本赤十字社法(昭和27年8月14日法律第305号)」によって設立された認可法人(特別の法律に基づいて数を限定して設立されるもの)であり、社員と呼ばれる個人、及び法人参加者の結合による社団法人(一定の目的で構成員[社員]が結合した団体[社団]の内、法律により法人格が認められ、権利義務の主体となるもの)類似組織である。日本赤十字社の基本精神は、人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性である。佐野常民は、1867(慶応3)年のパリ万国博覧会(フランスの首都パリで開催された、日本が初めて参加した国際博覧会)に参加し、その万国博覧会会場で、国際赤十字の組織と活動を見聞した。佐野常民は、その時の知識を元に、共に元老院議官であった大給恒らと、戦争の悲惨な状況が拡大していることに鑑みて、大日本帝国陸軍の軍政機関(軍隊に関する事務を統括する行政組織)である陸軍省に、敵味方の区別なく救護を行なう赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。しかし、陸軍卿代行(当時の陸軍省の長)の西郷従道(西南戦争の盟主となった西郷隆盛の弟)は、内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊(犯罪者)の救護は赤十字の救護とは言えないのではないかとして、その精神に理解を示さず、設立を許可しなかった。そこで、佐野常民らは、元老院議長で鹿児島県逆徒征討総督であった皇族・政治家・陸軍軍人の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。逆徒であるが、天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を、有栖川宮熾仁親王は嘉し、中央に諮ることなく設立を認可した。但し、敵味方共に助けるというその思想が、一般兵士にまでは理解されず、双方から攻撃、若しくは妨害等を受け死者が出たと言われている。博愛社は、国際赤十字の精神を発現する団体として創設され、赤十字として認知されるよう活動していたが、1886(明治19)年、「戦地軍隊における傷病者の状態の改善に関する条約(ジュネーヴ条約、赤十字条約)」に調印した政府の方針により、翌1887(明治20)年に日本赤十字社と改称し、特別社員、及び名誉社員制度を新設した。当時、西ヨーロッパ諸国の王室、皇室は赤十字活動に熱心であり、近代化を目指す日本でも、昭憲皇太后(第122代天皇、明治天皇の皇后)が積極的に活動に参加し、正式紋章「赤十字竹桐鳳凰章」は、昭憲皇太后の宝冠のデザインを模倣して制作され、また、昭憲皇太后の示唆により、後に制定された。これ以後、華族や地方名望家が指導的立場に就いた。また、特に顕彰された訳ではないが、類似した例に、熊本の医師、鳩野宗巴(代々、1世から10世までが同じ名を受継いで活動していたが、1世と8世が特に有名で、1世は禁を犯してオランダに渡航し、医学を学んだと言われ、8世は、西南戦争時熊本城下で医術を業としていた)が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ、実施したことが挙げられる。鳩野宗巴の行動は戦後、利敵行為として裁判に掛けられたが、結局、無罪判決を下されている。当時の鹿児島県令大山綱良は、官金を薩軍に提供した廉で逮捕され、戦後に長崎で斬首された。また、元陸奥国会津藩上席家老で、都都古別神社(現在の福島県東白川郡棚倉町に所在する、陸奥国一宮[ある地域の中で、最も社格の高いとされる神社])の宮司を務めていた西郷頼母が、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、宮司を解任されている。高知では、同年8月に挙兵を企てたとして、立志社(薩長藩閥[明治維新後、有力な特定藩の出身者が政府の要職を独占して結成した、政治的な派閥]政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障等の要求を掲げた、自由民権運動の中心となった高知県の政治団体)の林有造や片岡健吉ら、高知在住の幹部が逮捕、投獄されている(立志社の獄)。西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成できなかったばかりか、政府の財政危機を惹起させて、インフレーション(物価が持続的に上昇する経済現象)、そしてデフレーション(インフレーションの逆で、物価が持続的に下落していく経済現象)をもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアート(資本主義社会における賃金労働者階級)を増加させた。その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となった。結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能になって、日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差は拡大した。