1月30日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第5火曜日 旧暦 12月20日、先勝(癸巳)、月齢 18.6 
グレゴリオ暦で年始から30日目、年末まであと336日。
誕生花 キンリュウカ・キンポウゲ・ペペロミア・ムスカリ・鯛釣草。

二十四節気・雑節等 
鶏とやにつく。
七十二候の1つ(72候)。 
 
孝明天皇祭。
1874(明治7)年から1912(明治45)年まで実施された宮中祭祀(天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的に行なう祭祀)の1つ。1873(明治6)年の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年10月14日太政官布告第344号)」制定当初から、皇室(宮中)で主要な祭祀が行なわれる日、祭日と定められていた。1866(慶応2)年12月25日(新暦1867年1月30日)、第121代天皇、孝明天皇が崩御した。皇居内の皇霊殿(歴代天皇・皇族の御霊が祀られている建造物で、賢所・神殿と共に宮中三殿と呼ばれる)と、孝明天皇の陵所である京都の月輪東山陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町に所在)で祭典が行なわれる。孝明天皇が崩御したのは、旧暦の慶応2年12月25日で、当初は仏式で行なわれ、1870(明治3)年から神式で行なわれるようになった。1872(明治5)年の太陽暦採用に伴ない、新暦に換算した1月30日に行なわれるようになった。孝明天皇は第122代天皇、明治天皇の父に当たる。1831(天保2)年に第120代天皇、仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。1840(天保11)年、立太子の儀(内外に皇嗣たる皇太子に就任したことを宣言する習わし)が行なわれ、皇太子となった。1846(弘化3)年に践祚(天皇の位を受継ぐこと)し、江戸幕府へ海防強化、及び対外情勢の報告を命じ、江戸幕府は異国船の来航状況を報告した。孝明天皇の代始改元(天皇の交代による元号の変更)は嘉永であったが、黒船来航、安政の大地震、内裏(天皇の私的な在所)炎上と続いたため、1855(嘉永7/安政元)年に元号を安政と改元した。この後、万延、文久、元治、慶応と、短期間で改元が繰返された。明治政府は、1868(慶応4)年を改めて「明治元年」とすると共に、一世一元の詔で、天皇一代に付き一元号とする一世一元の制を定めたため、これ以降は、短期間での改元は行なわれていない。慶応は江戸時代最後の改元となり、江戸幕府第14代将軍徳川家茂が朝廷に対して、改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開する等、江戸幕府創設以来、幕府が奏上してきた改元制度が終焉したことを示すものとなった。なお、慶応改元の際には、候補の1つとして「平成」が挙げられていたとされるが、この時は採用されなかった。孝明天皇は、京都守護職であった陸奥国会津藩第9代藩主松平容保への信任が、特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派(王を尊び、外敵を斥けようとする思想)公家が長州(周防国/長門国長州藩)勢力と結託して様々な工作を計ったこと等もあり、周防国/長門国長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けた。但し、遺品として時計が残る等、西洋文明を全く否定していた訳ではない。仁孝天皇の第八皇女で、孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王は、孝明天皇の命により1851(嘉永4)年に有栖川宮熾仁親王(明治維新後は陸軍軍人として第122代天皇、明治天皇を支えた皇族)と婚約する。1858(安政5)年、日米修好通商条約の無断調印の旨が宿継奉書(現在の速達のこと)で京都に知らされ、孝明天皇は譲位の意思を示された。驚愕した一同に諌止されたが、朝廷は幕府へ説明を求め、大老の井伊直弼、及び御三家に上京を求めた。しかし、多忙、又は謹慎中のため、京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へ上ることになった。その一方、日露修好通商条約と日英修好通商条約は、勅許がないまま調印された。その後、孝明天皇は左大臣(司法・行政・立法を司る最高国家機関、太政官の職務を統べる議政官[意思決定機関である合議体]の首座として朝議を主催した)近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰(天皇自筆の文書)を下された。しかし結局、孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受入れた(心中氷解の沙汰書)。その後、和宮親子内親王が将軍家に降嫁すれば公武一和に役立つとされ、孝明天皇は条約破棄と攘夷を条件に、和宮親子内親王降嫁を認める旨を、幕府側に立って動いていた関白九条尚忠を通じて京都所司代に伝えた。和宮親子内親王は縁組を硬く辞退したが、孝明天皇の譲位の決意、親族への圧力を示唆された和宮親子内親王は降嫁を承諾するに至る。1860(万延元)年、孝明天皇は和宮親子内親王の降嫁を勅許(許可)し、和宮親子内親王一行は中山道を江戸へと向かった。 和宮親子内親王一行が通る沿道では、住民の外出や商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに、火の用心が徹底される等、厳重な警備が敷かれた。そして、1862(文久2)年、和宮親子内親王と江戸幕府第14代将軍徳川家茂の婚礼が行なわれる。和宮親子内親王は、征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮親子内親王が主人、嫁を貰う徳川家茂が客分という、逆転した立場で行なわれることとなり、これは後々まで、江戸城内において様々な形で尾を引くこととなった。1865(慶応元)年、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの軍艦が通商条約の勅許と兵庫開港を求めて兵庫浦(現在の兵庫県神戸市沖)に集結し、幕府の奏請を受けた孝明天皇は条約を勅許した。翌1866(慶応2)年、徳川家茂が薨去(君主等の死亡を表わす敬語)した。同じ1866(慶応2)年には孝明天皇が崩御しており、和宮親子内親王は1年余りの間に夫と兄を次々と失うこととなった。明治維新の際、和宮親子内親王は、徳川家存続のための嘆願書を朝廷に提出している。幕府や一会桑政権(幕末の政治動向の中心地京都において、徳川慶喜[禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主]、松平容保[京都守護職・陸奥国会津藩主]、松平定敬[京都所司代・伊勢国桑名藩主]の三者により構成された体制)、薩摩国/大隅国薩摩藩や周防国/長門国長州藩等の諸藩・公家・志士達による、権力を巡る争奪戦に巻込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。1865(慶応元)年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて、条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って、条約の勅許を出すこととした。しかし、この年には、西洋医学の禁止を命じる(実際には、宮中のみに留まった)等、保守的な姿勢は崩さなかった。このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通(薩摩国/大隅国薩摩藩藩士で、武力による新政府樹立を目指した)は、同郷の親友・同志、西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、公家の岩倉具視は、「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行なって朝廷の求心力を回復せよ」と記している。こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後、薩摩国/大隅国薩摩藩の要請を受けた内大臣、近衛忠房が、天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛忠房に対して、元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行なったのか、と糾弾する書簡を突付けている。孝明天皇は、在位約21年にして、満35歳という若さで没する。死因は天然痘(非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる感染症)と診断されたが、他殺説も存在し、議論となっている。