1月26日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4金曜日 旧暦 12月16日、先負(己丑)、月齢 14.6    
グレゴリオ暦で年始から26日目、年末まであと340日。
誕生花 アマリリス・オジギソウ・カロライナジャスミン・ヒヤシンス(白)・金魚草・寒牡丹。

二十四節気・雑節等 
満月。
望。月と太陽の黄経差が180°となる日。天文学的満月。旧暦の十五夜とは一致しないことが多い。なお、旧暦八月の十五夜は、「中秋の名月」と呼ばれる。「中秋」という表現は、「秋の中日(ある期間の真ん中に当たる日)」であることから、旧暦8月全体を指す「仲秋」とは区別される。満月 (望) の月齢は、13.9日~15.6日と大きく変化する。旧暦15日は月齢14.0を含む日で、月の満ち欠け周期の半分は約14.8日となるため、平均的には満月 (望) が後になり易いと言える。

文化財防火デー。
1949(昭和24)年1月26日、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗(第31代天皇、用明天皇の第二皇子で、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った飛鳥時代の皇族・政治家、聖徳太子[厩戸皇子]を宗祖とする宗派の1つ)の総本山、法隆寺の金堂から出火し、貴重な壁画等を焼失したことから、その反省の意味を込め、文化財を火災や震災から守ると共に、文化財愛護思想の普及高揚を図る目的で、1955(昭和30)年に制定された。法隆寺は7世紀初頭頃に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は、金堂薬師如来像光背銘(法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背[仏像等で体から発せられる後光を現わしたもの]裏面に刻された銘文[金属等に記された文字資料])、『上宮聖徳法王帝説』から607(推古15)年とされる。金堂(本尊を安置する寺院の仏殿)、五重塔(層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔の内、五重の屋根を持つもの)を中心とする西院伽藍(寺院の主要建物群)と、夢殿(堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する八角円堂)を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約187,000平方mで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は、同じ斑鳩の里にある法起寺と共に、1993(平成5)年に「法隆寺地域の仏教建造物」として国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品等、多数の文化財を有する。法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和と河内とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳(直径50m以上、高さ約9mの円墳で、出土品から6世紀後半に築造された古墳であると考えられている)を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから1つの文化圏を形成していたことを窺わせる。日本に伝存する最古の正史『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は601(推古9)年、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺)からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、605(推古13)年に斑鳩宮(聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿)に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が、斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、即ち法隆寺であった。1939(昭和14)年に行なわれた発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが判明した。711(和銅4)年頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。現在の西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が、焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている。また、発掘調査が行なわれた1939(昭和14)年には、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている。1934(昭和9)年から「昭和の大修理」が開始され、金堂や五重塔を始めとする諸堂宇の修理が行なわれた。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀余り続き、1985(昭和60)年に至ってようやく完成記念法要が行なわれた。1981(昭和56)年からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。1949(昭和24)年1月26日の金堂での火災(原因は電気座布団の漏電であった)で、堂内の壁画の大半が焼損したが、壁画は長年、自然災害や兵火にも遭わず飛鳥時代の芸術を伝えてきたものであり、その焼損は、日本国民に強い衝撃を与えた。そればかりでなく、同年2月には、愛媛県松山市にある松山城の筒井門等3棟が、6月には北海道松前郡松前町にある松前城の天守等2棟が焼失した。半年の間に3件の国宝(当時)が火災に遭った訳で、これらの事件によって日本国民の間でも、火災等の災害から文化財を保護する必要性について議論が高まり、1950(昭和25)年に「文化財保護法(昭和25年5月30日法律第214号)」が制定される1つの契機となった。1955(昭和30)年、文化財保護行政が確立すると共に、日本国民への普及啓発事業が行なわれるようになった。その一環として、文化財保護委員会(現在の文部科学省の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織]、文化庁)と国家消防本部(現在の総務省の外局、消防庁)が、文化財を火災や震災、その他の災害から守ると共に、日本国民の文化財愛護思想の高揚を図るため、1月26日を「文化財防火デー」と定めた。この日が選ばれたのは、法隆寺金堂が焼損した日であること、また、冬季が、1年の内で最も火災が発生し易い時期であることによる。以来、毎年この日を中心に、文化庁、消防庁、教育委員会、文化財所有者等が連携して、「文化財を火災から守ろう」のスローガンの下、日本各地で防火訓練等の文化財防火運動が行なわれている。また、国庫補助による国宝建造物等への火災報知機やスプリンクラー設備等の設置も進められた。「文化財保護法」施行以降に指定された日本の国宝建造物には、今のところ火災で焼失した例はない。但し、「文化財保護法」公布前の1950(昭和25)年7月には、放火により、京都市北区金閣寺町にある鹿苑寺舎利殿(金閣)が焼失している。この金閣寺放火事件は、不審火の疑いがあるとして、鹿苑寺の関係者を取調べたところ、鹿苑寺子弟の見習い僧侶で、学生の男による放火と判明している。鹿苑寺は、建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる。現在の舎利殿(金閣)は、国や京都府の支援、及び地元経済界等からの浄財により、事件から5年後の1955(昭和30)年に再建されたものである。舎利殿(金閣)は、明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことから、極めて忠実な再現が可能であった。また、1950(昭和25)年以降には、重要文化財建造物の内には、京都市右京区花園にある妙心寺の鐘楼や、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする延暦寺の大講堂等、焼失したものがある。なお、5月30日は、文化財の保存・活用と、国民の文化的向上を目的とする法律、「文化財保護法」が1950(昭和25)年5月30日に制定されたことから、「文化財保護法公布記念日」となっており、8月29日は、「文化財保護法」が1950(昭和25)年8月29日に施行されたことから、「文化財保護法施行記念日」となっている。「文化財保護法」の施行に合わせて、「文化財保護法」の前身となった、「史蹟名勝天然紀念物保存法(大正8年4月10日法律第44号)」「国宝保存法(昭和4年3月28日法律第17号)」「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律(昭和8年4月1日法律第43号)」は廃止された。