1月23日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4火曜日 旧暦 12月13日、赤口(丙戌)、月齢 11.6  
グレゴリオ暦で年始から23日目、年末まであと343日。
誕生花 スノーフレーク・ネコヤナギ・ガマの花・マンリョウ・白妙菊。

八甲田山の日。
1902(明治35)年、日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が、青森市街から八甲田山の田代新湯(現在は温泉が廃湯となっている、田代元湯の上流に位置する温泉)の宿に向かう雪中行軍の途中で遭難した。訓練への参加者210名中199名が死亡(その内の6名は救出後死亡)するという、日本の冬季軍事訓練における、最も多くの死傷者が発生した事故であると共に、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。遭難の原因は、雪中行軍が行なわれた時は、冬季に典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていて、日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもあった、という気象条件や、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い貧弱な装備、雪中行軍隊の指揮系統の混乱、及び、極端な情報不足と防寒の知識が皆無であった等の認識不足等、諸説あるが、決定的な原因ははっきりしていない。「なせばなる」の精神主義だけでは、大自然を相手に勝つことができなかったのは確かなことで、この死の行軍は、1971(昭和46)年、気象学者で作家の新田次郎が『八甲田山死の彷徨』として小説化する。さらに、この小説を原作とした1977(昭和52)年の映画『八甲田山』で、一般に広く知られることになった。日本陸軍は、1894(明治27)年から1895(明治28)年にかけて行なわれた、主に朝鮮半島(李氏朝鮮)を巡る日本と清国(中国)との戦争、日清戦争で、冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって、寒冷地での冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は、2年後の1904(明治37)年に日露戦争として現実のものとなった。雪中行軍には、青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から第8師団歩兵第31連隊37名と民間の新聞記者1名が参加し、その内の青森歩兵第5連隊が遭難した。両連隊は、日程を始め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた(小説や映画での行軍競争等は創作である)。青森歩兵第5連隊は、ロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森~田代~三本木~八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。最大の難所である青森~田代温泉間の雪中行軍演習が片道約20km、1月23日より1夜2日の予定で計画された。行軍ルートは田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年掛かりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。「弘前~十和田湖~三本木~田代~青森~浪岡~弘前」の総距離約224kmのルートで、1月20日より11夜12日の行程であった。1月23日午前6時55分、歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。途中の田茂木野村という場所で、地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くなら、と案内役を買ってでるが、これを断り、地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行なうことになった。その後、天候が急変し、暴風雪の兆しがあったことから、軍医の進言により、将校の間で進むか退くかの協議を行なった。装備の不安と天候がさらに悪化することを恐れ、将校らは駐屯地へ帰営することを検討したが、見習士官や長期伍長等、下士官を中心とする兵達の反対と、田茂木野村で案内人を断って進軍したこと等により、行軍を続行した。積雪量が格段に深くなったため、午後5時頃にはソリの放棄を決定した。ソリの荷物については、各輸送隊員が分散して持つこととなった。午後8時15分、目的地まで後約1.5kmの平沢の森まで進出した所が最初の露営地となった。将兵達は、雪壕の側壁に寄掛かる等して仮眠を取ったが、厳しい風雪で気温がマイナス20℃以下まで下がり、眠ると凍傷になるとして、軍歌の斉唱や足踏が命じられた。このため、長くとも1時間半程度しか眠れなかった。将校達は協議の結果、行軍の目標は達成されたと判断し、部隊の帰営を決定する。これを受けて部隊は、午前2時半に露営地を出発した。しかし、道に迷った上に全員が疲労困憊しており、隊列も整わず、統制に支障が出始めた。部隊は完全に遭難状態となった訳である。改めて猛烈な暴風雪に曝され、部隊は安全な場所を求めて彷徨した。この日の行軍は約14時間半に及んだが、結局、前露営地より直線距離にしてたった約700m進んだだけで、夕方頃に凹地を発見し露営地とした。部隊は統制が取れない上、雪濠を掘ろうにも、道具を所持していた隊員は全員落伍して行方不明となっており、文字通り吹曝しの露天に露営する状態となった。食料は、各自が携帯していた糒と餅の残りと缶詰があったが、凍結して殆ど喫食不可能であった。凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌や足踏み、互いに摩擦する等して睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温低下で体感温度がマイナス50℃近くとなり、前日より殆ど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多数の将兵が昏倒し凍死していった。この遭難で、最も多くの犠牲者が発見された場所である。1月25日も夜明けを待って出発の予定であったが、凍死者が続出したため、止むなく午前3時頃に部隊は出発したが、この時点で死者、行方不明者合わせて70名を超えていた。その他の兵士も、多くは凍傷に罹っていた。その後も彷徨は続き、約30名が凍死。後に生存者として発見される兵士を含む、十数名が行方不明となる。1月26日には救援隊が青森連隊駐屯地を出発したが、風雪がなおも厳しく、捜索を断念している。翌1月27日に救援隊は捜索活動を再開し、雪中行軍隊の内の1名を発見し、雪中行軍隊が遭難したことが判明した。救助活動は青森連隊、弘前連隊、さらには仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ約1万名が投入された。その後、生存者の収容の完了と捜索方法の確立と共に、救助活動は青森連隊独自で行なった。最後の遺体収容は5月28日であった。弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、ほぼ全行程で案内人を立てたお陰で見事に踏破を果たし、途中で足を痛めた1名を三本木から帰還させた以外は、無事全員生還した。1932(昭和7)年1月、第2次雪中行軍が敢行され、参加者全員無事に八甲田山踏破に成功した。1965(昭和40)年から毎年、厳冬期には、青森駐屯の陸上自衛隊第9師団の第5普通科連隊が、八甲田山系での冬季雪中戦技演習を行なっている。第5普通科連隊は、歩兵第5連隊の連隊番号を継承している。なお、八甲田山は、青森市の南側に聳える複数火山の総称で日本百名山の1つともなっている。「八甲田山」と名が付いた単独峰は存在せず、18の成層火山や溶岩円頂丘で構成される火山群である。青森県のほぼ中央に位置し、東北日本の脊梁奥羽山脈の北端である。命名の由来については、明治初期の地誌(自然・地形・気候・人口・交通・産業・歴史・文化等の地理上の特定地域を様々な諸要素を加味して、その地域性を論じた書籍)『新撰陸奥国誌』によれば、八の(沢山の)甲(たて)状の峰と山上に多くの田代(湿原)があるから、とされる。周辺は、世界でも有数の豪雪地帯である。