1月22日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

カレーの日、カレーライスの日。
東京都台東区蔵前に所在する、カレーを製造する事業者の全国団体、全日本カレー工業協同組合が2016(平成28)年に制定。国民食と言われるまでに普及した、カレーのより一層の普及拡大により、健康で豊かな消費生活の実現に寄与することが目的。この日には、プレゼントキャンペーン等のイベントを実施している。1982(昭和57)年、学校給食を職務とする現職者達で組織する団体、全国学校栄養士協議会(東京都渋谷区千駄ヶ谷に所在し、1974[昭和49]年に社団法人に移行した後、2012[平成24]年には、公益社団法人となっている)が学校給食開始35周年を記念して、1日だけ全国の学校給食で同じメニューを出そうと、「全国一斉献立日」を企画した。学校給食が、東京都・神奈川県・千葉県で1946(昭和21)年12月24日に再開されたことから、本来は12月24日が実施日として相応しいものであったが、冬休み等、諸般の事情により、実施日は1月22日と決まったようである。子ども達に最も人気の高いメニューとしてカレーライスが選ばれたが、この統一メニューについては賛否あり、給食の管理化、さらには、管理教育等の問題にまで議論はエスカレートして、実際に行なわれたケースは少なかったようである。一部を除いて、学校給食が始まったのは第二次世界大戦後であるが、早い時期からカレーとシチューは、子ども達に圧倒的な人気メニューであった。但し、この頃はまだ、米飯の給食はなくパンであったため、パンとカレーの組合せとなっていた。学校給食は、極端な米食重視であった日本人の食生活を大幅に変容させ、日本にパンや乳製品の消費が定着する一因ともなった。一方で、日本人の食事が洋食化するにつれ、米の生産量の増大と反比例して消費量が減り、1976(昭和51)年には米飯給食が開始された。余った古米、古古米の処理のため、米飯が主食となり、後にパンは週1回程度になった。結果的には、ここでパンとカレーの組合せが解消されることとなる。なお、第二次世界大戦前にも、軍隊の給食にカレーは登場していた。1873(明治6)年には既に、陸軍の学校でライスカレーがメニューに入っており、その後もカレーは、軍隊には欠かせないメニューとなっていた。見た目にも味的にも、従来の日本人の食感覚からは受入れが難しそうなカレーが、早い時期から日本全国に広がった背景には、地方の若者が軍隊に入隊してカレーを覚え、故郷に持帰ったという事情もあった。インド料理を元にイギリスで生まれ、日本で独自に変化した料理であるカレーライスは、日本語では省略して「カレー」と呼ばれることが多く、ラーメンと並んで、『日本人の国民食』と呼ばれる程の人気がある料理となっている。インドのカレーよりとろみが強くなっているのは、イギリス海軍のメニューに採用された時、船の揺れに対応するためであったという説がある。また、ソースを重視するフランス料理の手法を取入れたからという説もあり、イギリスの食品会社、クロス・アンド・ブラックウェル社により生産されたカレー粉がフランスに渡り、フランス料理のカリー・オ・リ(フランス語でカレーライスのこと)の名の西洋料理になった、とも言われている。日本で初めて「カレー」という料理の名を紹介したとされる書物は、著述家・啓蒙思想家・教育者、福沢諭吉の著書(辞書)『増訂華英通語』(1860[万延元]年)とされ、1905(明治38)年には、大阪道修町(現在の大阪市中央区道修町で、製薬会社や薬品会社のオフィスが多いことで知られる)の薬種問屋の主人、二代目今村弥兵衛が国産初のカレー粉「蜂カレー」を発売した。薄暗い蔵の中でカレー粉を作っていた二代目今村弥兵衛が、ふと顔を上げた時、窓に1匹の蜂が止まっていて、その蜂に朝日が注がれ、黄金とも飴色とも言えるような輝きを放ち、その輝きが素晴らしい光景に見えたため、二代目今村弥兵衛は、このカレー粉の名前を蜂カレーに決めたという。大阪松屋町(現在の大阪市中央区松屋町で、人形・駄菓子・花火等の卸問屋街が多数存在する)薬種原料問屋「浦上商店」を経営していた浦上靖介は、外国製のカレー粉をヒントに、日本人の味覚に合わせようと、様々なスパイスを調合して、日本人向けのカレー粉を試行錯誤の末、開発・研究する。そして、1926(大正15)年にはカレー粉の「ホームカレー」を販売していた「稲田食品製造所」を吸収合併し、カレー粉の生産を開始する。この「浦上商店」が、即席カレールーを中心とする大手食品メーカー、ハウス食品の前身となっている。1945(昭和20)年11月、カレーや香辛料等を扱う食品メーカーのオリエンタルが、カレーが家庭料理に普及しつつあることに着目し、当時、カレーと言えば、炒めた小麦粉にカレー粉を混ぜる等、大変手間が掛かることから、「その手間を省き、調理を簡単にできれば売れる」と考え、事前に炒めた小麦粉とカレー粉を混ぜた粉末状のインスタントカレー、「オリエンタル即席カレー」を完成させた。固形製品は、1954(昭和29)年に大手加工食品メーカーのエスビー食品が初めて発売した。昭和30年代から、テレビによるCMを主とした各製造販売会社の販売合戦が起こり、「即席カレー」の生産と消費が急増した。1960(昭和35)年、日本有数の製菓会社で、菓子・食品・乳製品・健康食品等を製造・販売する総合食品メーカーの江崎グリコが、板チョコの生産技術を生かし、ブロック毎に割って量を加減できるワンタッチカレーを発売。こうしたことから、学校給食のメニューであったカレーが、一般家庭で広く作られるようになる。現在の日本の一般家庭では、「インスタント・カレールウ」を使って調理することが多い。1969(昭和44)年には、大塚製薬(医薬品、食料品の製造・販売企業)のグループ企業である食品メーカー、大塚食品が初のレトルトカレー「ボンカレー」(日本初のレトルト食品[気密性、及び遮光性を有する容器で密封し、加圧加熱殺菌した食品]でもある)を発売した。明治時代初期においてカレーライスは、限られたレストランで食することが可能な高額のハイカラ(西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、事物等を表わす言葉)料理であった。明治時代後期頃までは、西洋料理店がカレーライスの主な媒介的存在となっていたが、明治時代末期より、食堂のメニューにライスカレー・カレーうどん・カレーそばが出るようになってから、次第に大衆化されていった。大正時代後期、特に大正関東地震(関東大震災)後には、東京庶民が気軽に利用してきた外食店の蕎麦屋が、カレー南蛮やカレー丼のような和洋折衷料理を出すようになり、また、和・洋・中と何でも扱う大衆レストランでも、比較的安価な洋食として、人気メニューとなった。1990年代後半頃から町おこしを目的として、日本の各地方の特産物を使用したカレーが続々と発売されており、それらは「ご当地カレー」と呼ばれる。地方のカレー店(ホテル等)のカレーもこれに含む。カレーは、地元をアピールする為の食材を利用し易く、地名を入れて名付けた製品が多い。インターネットの発達により、パッケージや調理例の写真が簡単に広く宣伝をすることができるため、このような町おこしの材料として開発されるご当地カレーは、日本各地に見られる。昭和時代初期頃には、地元で豊富に存在した食材(北海道 - タコ、福島県 - ホッキ貝、熊本県 - 馬肉等)を利用したカレーが、地方によって食べられていたが、新たに作り上げた名物も多い。