1月22日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

カレーの日、カレーライスの日(続き)。
第二次世界大戦後の約27年間、アメリカ合衆国統治下にあった沖縄県では、日本本土とは異なり、第二次世界大戦前のレシピに基づく、カレー粉から作るルーを使用した、「黄色いカレー」が今も現役である。調理法は、作り置きではなく、注文が入ってから野菜と肉を炒め、そこにブイヨンを加えて少しだけ煮込み、小麦粉とカレー粉を炒って、作ったルーを溶かし入れる、というスタイルが多い。また、定番の野菜として、たまねぎ、にんじん、じゃがいもの他に、ピーマンが入るのが大きな特徴である。ご当地カレーの1つ、札幌スープカレーは、1971(昭和46)年に北海道札幌市中央区の喫茶店「アジャンタ」が発売した、薬膳カリィがオリジナルとされる。1993(平成5)年に開店した、北海道札幌市白石区にある本郷通商店街の「マジックスパイス」が、それに「ソトアヤム」(スパイスを多く使った鶏肉のスープ)というインドネシア料理のエッセンスを加えて、「スープカレー」と名付けて売出したところ、行列ができる程の人気店となり、注目された。2002(平成14)年には、スープカレー店が北海道札幌市に200店以上も乱立し、スープカレーブームが起こった。東京・大阪・名古屋等にも、札幌由来のスープカレー店が開店しており、カレー専門店チェーン最大手の「CoCo壱番屋」のようなカレーチェーン店も、冬季限定商品として全国的に発売している。札幌スープカレーは、「スパイスの効いたさらさらのスープに大きな具材が特徴」である。牛や豚等の肉や骨、野菜から取ったダシに、スパイスペーストを合わせてスープを作る。「トマト系スープカレー」では、フォン・ド・ボー(仔牛のダシ)を使ったり、炒めたバジルとその香味オイルをたっぷり浮かべることが多い。具は、スープと別に調理する。肉は元々、チキンレッグ(鶏肉の骨付きもも肉)が基本であったが、現在では、他に魚介類・豚角煮・ラムチョップ(子羊[ラム]の、あばら骨の付いた背肉)等が選択できることが多い。これに、素揚げしたジャガイモ、ニンジン、ピーマン、オクラ、カボチャ等の野菜が組合わされる。明治時代の初頭、創設間もない日本海軍は、イギリス式の兵式を採用し、最新の軍事技術の習得を行なう一方、慢性的な栄養不足から脚気(ビタミン欠乏症の1つで、ビタミンB1[チアミン]の欠乏によって、心不全と末梢神経障害をきたす疾患)に悩まされおり、兵食改革も喫緊の課題であった。そんな中、既にイギリス海軍で採用されていたカレーは、「栄養豊富」「大量調理が容易」「美味」と、三拍子揃った大変優秀なレシピで、特に、スパイス(生薬)を贅沢に使用したカレーは、医学的見地からも有用なレシピと言え、「寒さ暑さに対する適応力の向上」や「新陳代謝の促進」等の健康効果が期待できた。イギリス式のカレーを採用した日本海軍は、カレーを広く普及させるため、1908(明治41)年に日本海軍が、調理の担当隊員を育成するために編纂した教科書「海軍割烹術参考書」等に、カレーの調理法を紹介した。このように、兵食改革の一環として、カレーが広く普及して食べられるようになる。第二次世界大戦後、海上自衛隊で週休2日制が導入されて以来、カレーを食べる慣習が、土曜日から金曜日となった。この慣習がマスメディア等によって広く紹介された結果、1999(平成11)年の神奈川県横須賀市と横須賀地方総監部(海上自衛隊に属する防衛大臣直轄の部隊であり、主として担当の警備区域の防衛・警備、及び自衛艦隊等の後方支援に当たっている部隊、地方隊の中枢を担う部署)の企画「よこすか海軍カレー」を皮切りに、「呉海自カレー」「佐世保GC1グランプリ」「元祖海軍カレイライス」(京都府舞鶴市に所在する、主として経理、補給、給養[調理]、監理等の教育訓練を担当している術科学校[教育訓練を行なっている機関]、海上自衛隊第4術科学校)「大湊海自カレー」「まいづる海自カレー」と、海上自衛隊カレーを活用した企画が、各地で続々と登場している。
ジャズの日。
JAZZの「JA」が「January(1月)」の先頭2文字であり、「ZZ」が「22」に似ていることから。東京都内の老舗ジャズクラブのオーナーらによる「JAZZ DAY実行委員会」が2001(平成13)年から実施。ジャズのファン層の裾野を広げるために、ライブコンサート等、さまなざまPR活動が行なわれる。ジャズとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に派生した音楽形式であり、西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、及びアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれた。その表現形式は自由なものであり、初期からポール・ホワイトマン(アメリカ合衆国西部、コロラド州デンバー生まれで、「キング・オブ・ジャズ」等の愛称を持ち、大編成楽団を率いて活躍した指揮者)らの白人ミュージシャンが深く係わり、演奏技法等も急速に発展した。20世紀後半には世界の多くの国々で、ジャズが演奏されるようになった。1923(大正12)年4月には、日本で初めてのプロのジャズバンドが神戸で結成された。第二次世界大戦中は、禁令や自主規制等でジャズは鳴りを潜めたが、学生や軍人の中でも密かにレコードを聴いて楽しむ者も多かった。第二次世界大戦後、多くの元陸海軍軍楽隊員がジャズ畑へ転向した。また、第二次世界大戦後の日本にはアメリカ軍基地が置かれ、ジャズを筆頭とするアメリカ音楽は大々的に日本へと入ってきた。第二次世界大戦後の人々は、戦前と文化的に断絶されたためか、ジャズは戦後世代の象徴としているが、第二次世界大戦前にもジャズはあった。それでも、大衆化したのは第二次世界大戦後のことであり、一時期は、外国のポピュラー音楽を全て「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がった程である。また、毎年10月に兵庫県神戸市内の複数の会場で開催されるジャズイベント、神戸ジャズストリート等のジャズ・フェスティバルも催されるようになった。 
默阿彌忌。
江戸時代末期から明治時代前期にかけて活躍した歌舞伎狂言作者、河竹默阿彌の1893(明治26)年の忌日。河竹默阿彌は、 『三人吉三廓初買』『青砥稿花紅彩画』等の人気狂言を書き、近松門左衛門、四代目鶴屋南北と共に、三大歌舞伎作者の1人とされている。河竹黙阿弥の作品の特徴は、俗に「黙阿弥調」とも呼ばれる、華美な科白にある。また、現実的な内容をあくまでも写実的に、それでいて、どこまでも叙情的に描くことに秀でていた。河竹黙阿弥が特に、その本領を発揮したのは世話物(町人社会の義理や人情をテーマとした作品)で、中でも、盗賊を主人公に添えた一連の演目は「白浪物」として、1つの分野を確立するまでに至った。河竹黙阿弥の白浪物に登場する悪人は、いずれも小心者であったり、因果に翻弄される弱者であり、そこがふてぶてしい極悪人が最後に高笑いするような、大南北(四代目鶴屋南北)の作品と大きく異なる点である。   
左衛門忌。
明治・大正期の俳人、吉野左衛門の1920(大正9)年の忌日。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰が創刊した日刊新聞、国民新聞(現在の東京新聞の前身の1つ)を発行していた国民新聞社の社長を務めた吉野左衛門は、俳人・歌人の正岡子規の門に入り、国民新聞俳壇の選者となる。大正時代初期には、高浜虚子や原石鼎、嶋田青峰らと共に、五七五の定型調や季題といった伝統を守り、客観写生を深めることを主張した「ホトトギス派」の一支柱であり、即景、即事の速吟、多作であった。著書に句文集『栗の花』『左衛門句集』がある。