1月21日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3日曜日 旧暦 12月11日、仏滅(甲申)、月齢  9.6  
グレゴリオ暦で年始から21日目、年末まであと345日。
誕生花 ローズマリー・ガーベラ(赤)・アイビー・ユキヤナギ・ロウバイ・クロッカス。

薩長同盟成立の日(ライバルが手を結ぶ日)。
1866(慶応2)年1月21日(この日付は旧暦で、新暦では1866年3月7日となる)に薩摩国/大隅国薩摩藩の西郷隆盛、周防国/長門国長州藩の木戸孝允らが、薩摩国/大隅国薩摩藩藩士の小松帯刀邸(後の政治家で、「維新の十傑[倒幕・明治維新に尽力した志士の内、幕臣以外の10名]」の1人とされる小松清廉の屋敷で、現在の京都市上京区に所在する)で会見し、倒幕のために薩長同盟を結んだ。薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩(勢力の強い藩のことで、江戸時代末期は、主に西日本の諸藩が、財政改革に成功して経済力を増大させ、軍備拡充と人材登用で国政における発言力を増し、「雄藩」と呼ばれるようになったため、石高との相関は小さくなっている)として大きな影響力を持ったが、薩摩藩が公武合体の立場から江戸幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強める等、両者は容易に相容れない立場にあった。薩摩藩は、1863(文久3)年8月18日に陸奥国会津藩と協力して長州藩勢力を京都政界から追放し(八月十八日の政変)、翌1864(元治元)年7月19日には、上京出兵して来た長州藩兵と戦火を交え敗走させる(禁門の変)に至り、両者の敵対関係は決定的となった。禁門の変の結果、朝敵となった長州藩は、江戸幕府から第一次長州征討を受ける等、非常な窮地に陥ることとなった。一方で薩摩藩も、自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に、幕府に対する強硬論が高まっていくこととなった。長州藩と薩摩藩との間の和睦は、第一次長州征討中止の周旋や、後に明治政府の最高首脳人物の1人となる公卿、三条実美ら五卿の太宰府延寿王院(現在の福岡県太宰府市にある、当時は宿坊であった施設)への受入れに奔走していた筑前国福岡藩の尊皇攘夷派による、高杉晋作と西郷隆盛との会談(対帆楼会談)が行なわれたことや、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが、高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐国土佐藩を訪問する等して、西南の雄藩を結付けるよう行動したことに始まる。土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や、土佐藩を脱藩して長州藩に亡命し、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士達の纏め役となっていた中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を、西郷隆盛が直前に拒否する事態もあったが、坂本龍馬を介して6ヶ条の同盟締結に至る。その後の王政復古(江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職[最高官職の総裁、議事を決する議定、下級廷臣や藩士によって構成された維新政府の実質的な指導部と言える参与]の設置による新政府の樹立を宣言した政変)や、その王政復古を経て明治政府を樹立した、薩摩国/大隅国薩摩藩や周防国/長門国長州藩等を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力、及び奥羽越列藩同盟(陸奥国[奥州]、出羽国[羽州]、越後国[越州]の諸藩が、輪王寺宮[江戸時代に存在した、皇族が住職を務める寺院である門跡の1つ]の皇族、北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟)が戦った内戦であり、名称は1868(慶応4/明治元)年の干支が戊辰(干支の組合わせの5番目で、西暦年を60で割って8が余る年)であることに由来する、戊辰戦争への第一段階の様に置かれることが多いが、江戸幕府による長州藩処分問題に関して、長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、共に倒幕へ向けて積極的に動き出そうとするものではない。また、「決戦」の相手として想定されているのは、幕府そのものではなく「橋会桑」(当時京都政局を制圧していた御三卿一橋徳川家の第9代当主の一橋慶喜[後の江戸幕府第15代将軍徳川慶喜]、会津藩第9代藩主の松平容保、伊勢国桑名藩第18代藩主の松平定敬の3者で、いわゆる一会桑政権)である。一橋家当主の一橋慶喜は固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的対決の相手としては会津・桑名両藩、とりわけ会津藩を想定するものであった。この密約に基づいて薩摩藩は、幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否し、以後薩長の連携関係は深まっていくこととなった。薩長同盟が結ばれた会談の内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていない。薩摩藩と長州藩の提携が成立したのは、より後年の1867(慶応3)年11月、薩摩藩主島津茂久が多数の兵士を引連れて上洛する際に、長州藩の世子(世嗣ぎのことで、予め指名された地位継承者)であった毛利広封と会見し、出兵協定を結んだ時点である、との指摘もある。また、1867(慶応3)年6月には、薩摩藩と土佐藩の間の政治的提携である薩土盟約(薩土提携)が結ばれた。幕府崩壊寸前の時期に、なおも政局を主導する江戸幕府第15代将軍徳川慶喜と、倒幕路線を取始めた薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政奉還(将軍の位の返上)・王政復古(天皇中心の政治を復活させること)を通じて、平和的手段で公議政体(諸藩・民間から俊才を登用して、全国的に政治の統合を図ろうとしたもの)へ移行すべく提起した連携案に薩摩藩が同調したものであるが、両藩の思惑の違いにより、実行に移されることなく約2ヶ月半で解消されている。薩土両藩が最終的に盟約を解消した頃には、薩摩藩は長州藩、及び安芸国/備後国芸州藩との間で三藩連合による共同出兵計画を策定しており、土佐藩にはそれが知らされていなかった。そして、派兵協定が結ばれ、倒幕派の計画ではこれらの上京兵力を背景に「政変」を起こし(この時点ではまだ倒幕ではない)、王政復古を実現して最終的な倒幕に持込む予定であった。一方、土佐藩は薩摩藩との盟約解消後も予定していた大政奉還の建白書(主君に対する臣下からの意見を記した文書)を目指し、薩摩藩の協力を求め続けていた。しかし、薩摩藩と長州藩には、徳川慶喜討伐の詔書(天皇の命令命令を伝える文書)「討幕の密勅」が秘密裡に下される。ほぼ時を同じくして、徳川慶喜は土佐藩藩主山内容堂の建白に従って、大政奉還の上表を朝廷に提出。倒幕派の政変の目論見は一旦白紙に戻され、実際の政変(王政復古クーデター)は、1867(慶応3)年12月まで延引されることになる。なお、1867(慶応3)年6月の薩土盟約(薩土提携)も薩長同盟と同じく、小松帯刀邸で締結された。明治維新151年・令和元年・板垣退助百周忌を記念して、「薩土討幕之密約紀念碑」が建立されるに当たり、小松帯刀邸跡には既に「薩長同盟所縁之地」の石碑があるため、薩土密約の石碑は、この密約が締結される前段階として、京都にある料亭「近安楼」で会議が行なわれたことを記念し、祇園(現在の京都市東山区に所在)に建立された。