1月18日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

都バス開業の日。
1924(大正13)年1月18日、東京府(現在の東京都の前身)東京市(現在の東京都区部[東京23区]に相当)電気局が暫定的に、乗合バス(東京市営バス)事業を開始したことを記念して、東京都交通局が制定。東京市電気局が経営主体となったのは、1923(大正12)年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)により、東京府東京市が運営し、1910年代後半から1920年代初頭にかけて、「黄金期」と称される時期を迎えていた東京市電が大打撃を受け、復旧には相当な期日が掛かることが見込まれたため、市電の代替輸送機関として、バスを活用しようとしたからである。都バスと呼ばれる都営バスは、東京都が経営する公営バスである。東京都交通局内にバスを担当する「自動車部」(都電や都営地下鉄と日暮里・舎人ライナーは「電車部」)があり、バスの輸送人員は日本一の神奈川中央交通(神奈川県平塚市に本社を置くバス専業事業者に次いで全国2位となっている。最初に開通した路線は、東京駅と渋谷駅(中渋谷、現在の東京都渋谷区に所在)、巣鴨駅(巣鴨、現在の東京都豊島区に所在))と東京駅を結ぶ路線で、運行開始時はワンマン運転を採用し、停留所で切符を販売する形であった。また、当時の車体は明治初期の乗合馬車を連想させた。乗合馬車自体を「円太郎」と呼んでいた(この円太郎とは、乗合馬車の時代にスターになった落語家4代目橘家圓太郎のことで、乗合馬車は、御者がラッパを吹きながら乗合馬車を進ませたが、4代目橘家圓太郎は、寄席で自らが高座に入場する際に、出囃子替わりに馬車の御者のラッパを吹きながら入場したことが大いに受け、4代目橘家圓太郎は一躍スターとなり、馬車が「円太郎」と呼ばれただけでなく、自身も「ラッパの圓太郎」の異名を付けられた)ことに因み、この乗合馬車然とした市営バスは、「円太郎バス」と呼ばれるようになった。このように始まったバス事業は好調で、車庫の増設・車両の増備が図られることとなった。この頃、既に東京市内には、東京乗合自動車という民営企業が経営する乗合バスが運行しており、好成績を上げ、市電の強敵となっていた。東京乗合自動車のバスは青色(実際は深緑色)に塗られていたため、「青バス」と呼称され、また、車掌に10代後半から20代後半の女性を採用したが、制服の襟が白色であったことから「白襟嬢」と呼ばれ、注目を集めていた。東京市は、これに対抗して当初ワンマン運転であった乗合バスに、女性車掌を採用した。こちらは、制服の襟が赤色であったことから「赤襟嬢」と呼ばれるようになる。なお、女性車掌の乗務は第二次世界大戦後、バスのワンマン化が進む中でも1980年代頃まで散見された。1937(昭和12)年からの日中戦争等で物資の統制が進むようになり、燃料を手に入れることが次第に困難な状況となっていった。この中で、木炭をエネルギー源とし、車載した木炭ガス発生装置で不完全燃焼により発生する一酸化炭素ガスと、同時に僅かに発生する水素(合成ガス)とを回収し、これを内燃機関の燃料として走る自動車、木炭自動車の導入を始めとした代燃化を進めていく。また、陸上交通事業者が乱立していることが、戦時体制下では非効率であると判断され、1942(昭和17)年2月1日までに多くの民営バス運営企業が東京市に買収され、東京市は、東京中心部の乗合バス事業を独占した。1942(昭和17)年に電力統制が敷かれたため電気事業が分離され、1943(昭和18)年10月1日には東京都制が施行され、東京市電気局は東京都交通局に名称を変えることとなった。第二次世界大戦終戦後は、僅か12系統が運行されるだけとなり、車両も木炭車を中心とした代燃車両が用いられていたが、満足に走ることのできる車両は多くなかった。このような中で、アメリカ軍から余剰のトラックやトレーラーが日本国内のバス事業者に払下げられた。東京都交通局には約400台が割当てられ、復興に大きく貢献する。1952(昭和27)年、「地方公営企業法(昭和27年8月1日法律第292号)」の適用を受ける。この後は乗客の増加等もあり、経営的には順調であったが、1961(昭和36)年度以降は赤字基調となり、度重なる運賃の値上げによっても解消することはできなかった。その中で、経営改善を行なうために路線の再編やワンマンバス化等が行なわれることとなった。さらに、モータリゼーションの進行と共に、都内でも郊外からの交通需要の増加等により、慢性的な渋滞が都心部で発生するようになった。この影響も相まって、都電は現在の荒川線(三ノ輪橋 - 早稲田間)を残し、1963(昭和38)年から1972(昭和47)年にかけて次々に廃止され、無軌条電車(通称トロリーバス)も廃止された。これらの多くは代替輸送路線として都営バス路線が設定され、37系統が設定された。この都電代替路線の多くは、現行の都営バスの基幹となっている。様々な方策により利用客の減少を繋ぎ止めようと試みてきたが、大幅な路線の廃止を伴なう路線再編が地下鉄の延伸の機会に多く行なわれてきた。これにより、多くの路線が廃止・減便されると共に、地下鉄とバス並行の区間等で利用客が落込むこととなり、バス事業の利用者は減少を続けることとなった。利用者減少への対策の1つとして、1984(昭和59)年に都市新バスの運行を旧・橋89(渋谷駅 - 新橋駅)で開始することとなった(愛称は「グリーンシャトル」、系統番号は都01)。この路線は成功を収め、都市新バス化の前後で利用客の増加やバスに対する信頼性を回復した。この都市新バスはその後も設定が行われ、2010年現在では都営バスとして8系統(都01 - 08)が設定されている。都市新バスシステムとは、既に導入していたバスロケーションシステム(無線通信や衛星測位システム[GPS、人工衛星を使用して地球上の現在位置を測定するためのシステム]等を利用してバスの位置情報を収集することにより、バスの定時運行の調整等に役立てるシステム)より高度なシステムを追求した結果、バス専用レーンや停留所のグレードアップを始めとした施策を盛込んだ都市基幹バスシステムで、バス車両の大幅な改善を図った上で、停留所施設の充実・定時運行率の向上を目的としたものである。また、2000(平成1)年からは、増収対策の一環として車体に広告を貼付けるラッピングバスが登場した。このような様々な方策により、都営バスは利用客の減少を繋ぎ止めようと試みてきた。しかし、大幅な路線の廃止を伴なう路線再編が地下鉄の延伸の機会に多く行なわれ、多くの路線が廃止・減便されると共に、地下鉄とバス並行の区間等で利用客が落込むこととなり、バス事業の利用者は減少を続けることとなった。それに対応するため、都営バスでは「アクセスラインバス(AL01系統)」「ダイレクトバス(直行01系統)」「ラピッドバス(急行05系統・急行06系統・RH01系統)」「フレキシブルバス(FL01系統)」といった、新しいタイプのバス路線を運行することになった。都営バスでは、車両の低床化には平成の初期から取組み、1990(平成2)年度に最初の超低床バスであるスロープ付バス「都市型超低床バス」が8両導入され、新宿営業所(現:新宿支所)を始めとする5営業所に配置された。1991(平成3)年には、前年度のスロープに代えて、リフトを搭載した「リフト付超低床バス」が導入され、1995(平成7)年度まで続いたが、2009(平成21)年2月に全廃された。1996(平成8)年度末、新宿にノンステップバス2台が試験配属される一方、1994(平成6)年度から試験的に使用し、床面の高さを従来の850mmから650mmにして、低床化を図った「らくらくステップバス」に、リフトを追加した「リフト付新低床バス」も導入されたが、1997(平成9)年以降のノンステップバス導入で、この1回限りに終わる。しかし、リフトなしの「らくらくステップバス」は、1994(平成6)年度にいすゞ製のリーフサス車が、巣鴨に配置されたことが最初で、翌1995(平成7)年度以降は、エアサスのニーリング機構付きへと発展し(中型車はリーフサス、ニーリング機構無し)、1998(平成10)年まで継続投入された。1997(平成9)年度以降はノンステップバスが投入され、1999(平成11)年度からは全てノンステップバスに統一され、2013(平成25)年4月1日をもって、全車両のノンステップバス化が達成された。