1月18日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3木曜日 旧暦 12月 8日、先勝(辛巳)、月齢  6.6 
グレゴリオ暦で年始から18日目、年末まであと348日。
誕生花 プリムラ・パフィオペディルム・サンシュユ・アブチロン・連翹。

二十四節気・雑節等
冬土用入。
雑節。この日から次の立春の直前、つまり、節分までが「土用」の期間となる。「土用」とは、五行(古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説)に由来する暦の雑節である。1年の内の不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割当てている。残った土気は季節の変わり目に割当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼んだ。「土用」の間は、土の気が盛んになるとして、動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。但し、「土用」に入る前に着工して土用中も作業を続けることは差支えないとされた。また「土用の間日(まび)」には「土用」の障りがないとされた。五行の性質において、木気は植物のような発育伸長する勢いある傾向、火気は勢いが頂点に達し燃盛る性質、金気は熱や勢いが衰え凝縮・固化しつつある状態、水気は凝縮しきってエネルギーを秘めつつ静的に留まった状態であり、これらは四季、太陽、植物等の周期変化の観察から象徴化された。土気は土壌におくと種が発芽することの観察から、大きな変化を促し保護する働きと場所の象徴である。四季にはそれぞれ象徴である木火金水が順当に割当てられたが、そのままでは季節が変わる際に性質の異なる気が接し、ギャップ(大きなずれ)が生じることになる。現実のスムーズな移行にはバッファ(衝撃を吸収して和らげる緩衝器)的に働き、現在から次の季節の気へと変容させる期間があり、ここで土気が活発に働いているとみたのが「土用(土の働き)」である。この期間は、1年を五行の5等分し、さらに土を四季に配分するため4等分した長さとなる。土用の間の内、十二支が丑の日を土用丑の日という。土用の期間は18日、又は19日であるのに対し、丑の日は12日に1度あるので、土用の丑の日が土用の期間に2回あるケースが出てくる。その時はそれぞれ「一の丑」「二の丑」という。なお、天竜川の源となる諏訪湖の畔にあり、うなぎの収穫量、消費量の多い長野県岡谷市のうなぎ店等で結成された「うなぎのまち岡谷の会」が、「寒の土用丑の日」を制定している。「夏の土用丑の日」のように「寒の土用丑の日」にもうなぎを食べる、新しい食文化を築こうと始められたもので、最初は「岡谷・寒の土用の丑の日」と称していたが、今では全国で行なわれるようになり、「寒の土用丑の日」として定着している。日本で初めて鰻の養殖を始めた場所は、静岡県の浜名湖で、その温暖な気候や水等の環境が、うなぎに適していたためである。天然の養殖ではなく、天然のうなぎも、静岡県の浜名湖や天竜川では多く獲れていて、その浜名湖や天竜川に繋がっているのが、長野県岡谷市にある諏訪湖である。 長野県岡谷市は、浜名湖や天竜川のうなぎが諏訪湖まで流れてくることから、昔より天然のうなぎがよく捕れ、食べられていたという。参勤交代の時に通る殿様(藩主)にうなぎを出すこともあり、庶民でもうなぎは身近な食材であった。そのような事情から、長野県岡谷市は「うなぎのまち」となり、「寒の土用の丑の日」を定着させようと、長野県岡谷市では毎年、「寒の土用うなぎ祭り」が開催されている。うなぎは、泳ぎは余り上手くなく、遊泳速度は遅い。他の魚と異なり、ヘビのように体を横にくねらせて波打たせることで推進力を得る。このような遊泳方法は蛇行型と呼ばれ、ウツボやハモ、アナゴ等、うなぎと似た体型の魚に見られる。一般的に淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行ない、淡水に遡って来る「降河回遊(こうかかいゆう)」という生活形態を取る。徳川家康時代の江戸では、江戸湾の干拓事業に伴ない、多くのうなぎが獲れたため、うなぎのことを「江戸前」と呼び、うなぎの蒲焼が大いに流行し、「江戸前大蒲焼番付」という本が発売される程であった。堺町(現在の東京都中央区日本橋人形町)で、常陸国水戸藩の郷士・奉行、大久保今助が鰻丼を考え出した、という話がある。この米飯にタレが染込んだ味は、この芝居町で大人気となり、葺屋町(堺町の隣町)にある「大野屋」が、「元祖鰻めし」という看板で売出したのが最初と言う。売出しを開始した年代は特定されていないが、中村座や市村座が1841(天保12)年に焼失して移転した経緯から、その前の頃に売出したと推定される。ともあれ、天保の飢饉(1844[天保15]年)に、天保通宝(貨幣価値は100文とされ、当百銭とも呼ばれたが、実際には80文で通用した)1枚で売出したのが評判を呼んだという。うなぎに似た動物に、ヤツメウナギ(八目鰻)がいる。ヤツメウナギが属する円口類という脊椎動物の系統は、いわゆる「生きた化石」(太古の地質時代[約46億年前の地球の誕生から現在までの内、直近数千年の記録の残っている有史時代(歴史時代)以前のことで、地質学的な手法でしか研究できない時代]に生きていた、祖先種の形状を色濃く残している生物)で、うなぎとは異なる動物である。さらに、「狭義の魚類」からも外れており、脊椎動物としても非常に原始的とされる。ヤツメウナギは全ての種が細長く、体の断面が楕円形といった、言わば「うなぎ型」の外見であるため、一般にはうなぎと混同され勝ちで、和名にもそれが如実に表われている。ヤツメウナギの現生種は、淡水を中心とした世界中の寒冷水域に生息し、熱帯域には少ない。日本国内では、カワヤツメ、スナヤツメ、シベリアヤツメ、ミツバヤツメの4種が棲息するとされ、このウチ、カワヤツメと一部のスナヤツメは食用になる。ヤツメウナギの体の両側には、7対の鰓(えら)孔があり、それが一見、眼のようにみえることから、本来の眼と合わせて「八目」と呼ばれる。現代の日本で、全国的に流通する食材ではないが、洋の東西を問わず、様々な文化圏に普通に登場する。また、滋養強壮や夜盲症(鳥目)の薬としても、古くから用いられてきた。実際に脂肪に富み、ビタミンAの一種であるレチノールを8,200μg/100g以上含む等、栄養価は高い。日本国内の場合、食用とされるのは、殆ど日本産カワヤツメである。約50cmから約60cm。背側は黒青色で腹側は淡色。春に川を遡上し、5月から6月に産卵する。日本海側では島根県以北、太平洋側では茨城県以北に分布している。北海道、新潟県、山形県、秋田県等の日本海に注ぐ河川で多く獲れる。肉が固くて、モツのような弾力と歯応えがあり、レバーと魚油の匂いが混じった独特の風味を持つ。最近は漁獲量が減り、大きさも一般に小さくなって来ている。現在でも、産地以外では、鮮魚としてカワヤツメを得ることは殆ど不可能で、乾物か冷凍品ということになる。一般的には、その風味や食感が馴染まれず、漁獲地域も限られることから、薬品やサプリメントの原料となることが多い。乾燥品を粉砕して飲用したり、身や肝から油を抽出して、カプセルやドロップの形にして服用する。
上弦。
半月。月と太陽の黄経差が90°となる日。

振袖火事の日。
1657(明暦3)年1月18日(旧暦)、江戸城天守閣と市街の殆どを焼失した明暦の大火が発生した。明暦の大火は、その出火地から「丸山火事」「本妙寺火事」等と呼ばれ、また、1657(明暦3)年の干支から「酉年の大火」「丁酉(ひのととり)の火事」等とも呼ばれたが、当時の記録に「振袖火事」と称した例は見られない。しかし、明暦の大火は、むしろ「振袖火事」の名称で広く知れ渡っている。「振袖火事」と呼ばれる所以は、以下のような伝承があるためである。江戸麻布(現在の東京都港区中部に所在)の裕福な質屋、遠州屋の娘である梅乃(16才。数えで17才)は、本郷(現在の東京都文京区南部に所在)の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野(現在の東京都台東区西部に所在)の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れする。ぼうっと美少年の後ろ姿を見送り、母に声を掛けられて正気に戻り、赤面して下を向く。梅乃は、この日から寝ても覚めても美少年のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に美少年が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては、美少年の面影を思い焦がれる日々であった。しかし、痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと、娘の棺に生前愛した形見の振袖を掛けてやった。当時、こういう棺に掛けられた遺品等は、寺男(寺で雑用をする男)達がもらっていいことになっていた。この振袖は、本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘、きの(16才)のものとなる。ところが、この娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺に掛けられて、奇しくも梅乃の命日に、また本妙寺に持ち込まれた。寺男達は再度それを売り、振袖は別の町娘、いく(16才)の手に渡る。ところが、この娘も程なく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ、本妙寺に運び込まれてきた。さすがに寺男達も因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩(供物を火中に投じ、諸尊に供養する修法)の火の中に振袖を投込むと、にわかに北方から一陣の狂風が吹き起こり、裾に火の点いた振袖は、人が立上がったような姿で空に舞上がり、寺の軒先に舞落ちて火を移した。たちまち、大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島方面(現在の東京都文京区南部から東京都台東区方面[東方向])、もう1つの一陣は駿河台方面(現在の東京都文京区南部から東京都千代田区方面[南方向])へと燃広がり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。この他にも、幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説や、江戸幕府の老中(将軍に直属して国政を統轄する常置の職)であった下野国壬生藩第2代藩主、阿部忠秋の屋敷からの失火ながら、老中の屋敷が火元となると、幕府の威信が失墜してしまうということで、幕府の要請により、阿部忠秋邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたとの説等、諸説あるが真相は不明である。この明暦の火災による被害は、延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火(明暦の大火、1772[明和9]年の明和の大火、1806[文化3]年の文化の大火)の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが、約3万名から約10万名と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。火災としては、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲、1923(大正12)年9月1日の大正関東地震(関東大震災)等の戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。明暦の大火を契機に、江戸の都市改造が行なわれた。徳川御三家(江戸幕藩体制の下で特別な地位を与えられていた、徳川家康の九男徳川義直に始まる尾張家、十男徳川頼宣に始まる紀伊家、十一男徳川頼房に始まる水戸家の三家)の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴ない、武家屋敷や大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋(現在の東京都足立区千住橋戸町と東京都荒川区南千住の間に架かる橋)のみしかなかった隅田川への架橋(現在の東京都中央区東日本橋と東京都墨田区両国の間に架かる両国橋や、現在の東京都中央区新川と東京都江東区佐賀及び東京都江東区永代の間に架かる永代橋等)が行なわれ、隅田川東岸に深川(現在の東京都江東区に所在)等、市街地が拡大した。吉祥寺(現在の東京都武蔵野市に所在)や下連雀(現在の東京都三鷹市に所在)等、郊外への移住も進んだ。また、防災への取組みも行なわれ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路(幅の広い街路)が設置された。現在でも上野広小路(現在の東京都台東区に所在)等の地名が残っている。幕府は、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。この火災の特記すべき点は、火元が1ヶ所ではなく、本郷(現在の東京都文京区南部に所在)・小石川(現在の東京都文京区西部に所在)・麹町(現在の東京都千代田区南部に所在)の3ヶ所から連続的に発生したもので、1つ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の約6割、江戸幕府開府以来から続く古い密集した市街地においては、そのほぼ全てが焼尽くされた点にある。当時の様子を記録した仮名草子(仮名、もしくは仮名交じり文で書かれた、近世文学における物語)『むさしあぶみ』によると、前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており、当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであったとある。火災後、身元不明の遺体は、幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、その地に供養のため、現在の回向院(東京都墨田区両国に所在)が建立された。また、幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助等を行ない、武蔵国川越藩第5代藩主で老中首座の松平信綱は、合議制の先例を廃して、老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止及び早期帰国(人口統制)等の施策を行なって、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場高騰を見越して、幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため、江戸で大きな利益を得られると、地方の商人が米を江戸に送ってきたため、江戸は米が充満して米価も下がる結果となった。この大火で多数の民衆が避難する際、下に車輪のついた長持「車長持」(主に近世の日本で用いられた民具の1つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱で、箱の下に車輪を付けて移動の便を図ったものを、車長持という)で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生、死者数の増大の一因となったことから、以後、車長持の製造販売が三都(京・大坂・江戸)で禁止された。また、この大火の際、小伝馬町(現在の東京都中央区日本橋小伝馬町で、江戸時代には牢獄があった)の牢屋奉行、石出帯刀吉深は、焼死しそうな罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせたら必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切放ち」を独断で実行した。罪人達は涙を流して石出帯刀吉深に感謝し、結果的には、約束通り全員が戻ってきた。石出帯刀吉深は「罪人達は大変に義理深い者達」と思い、「死罪も含めた罪一等を減ずるように」との老中への進言を受け、幕府は減刑した。以後、この緊急時の「切放ち」が制度化されるきっかけにもなった。