1月18日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

ナンバー2の悲劇の日。
1912(明治45)年1月17日、初の南極点(地球の自転軸が地表と交わる南緯90度の点)到達を目指したイギリス海軍軍人、ロバート・スコットが率いるロバート・スコット隊は南極点に達し、翌1月18日には、南極点にイギリス国旗を立てる。しかし、その時は、ノルウェーの探検家であるロアール・アムンゼン率いるロアール・アムンセン隊が、南極点に到達してから既に約1ヶ月も経っており、南極点にはノルウェーの国旗が立てられていた。南極点から約3km程離れた場所にテントが設営され、食料・防寒具・手紙が置かれていた。ロバート・スコット隊は、ロアール・アムンセン隊に次ぐ、南極点到達の2番手に終わった。映画等では劇的効果を高めるために、ロアール・アムンセン隊に先を越されたことが、南極点到達時に初めて判明したよう、描写されることが多い。しかし、ロバート・スコット達はそれ以前に、ロアール・アムンセン隊のそりの滑走痕を視認しており、遅くとも1月16日には、ロアール・アムンセン隊に先を越されたことはほぼ確実である、と認識していた。1910(明治43)年6月1日、ロバート・スコットは第2回となる南極探検に出発する。この探検には、8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行なうと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。ロバート・スコット率いるロバート・スコット隊は、1911(明治44)年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。同1911(明治44)年10月、越冬を終えたロバート・スコット隊は、南極点に向け出発する。ロバート・スコット隊は2台の雪上車を投入したが、これはエンジン付きのそりといった代物であった。ロバート・スコットの期待に反して、1週間足らずで両方共エンジンが故障し、修復不可能になってしまったため、南下は困難を極める。また、羽織っていた毛織物の防寒具が、水を吸って凍り付いてしまい、体温の管理にも支障をきたす。主力の馬も、寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが徐々に鈍ってゆく。12月2日、ついに食料節約のため、馬の最後の1頭も射殺せざるを得ない状況に追い込まれ、終いには。人力でそりを曳かざるを得なくなった。この時点で、4人1組で曳引するそりが3台、犬ぞりが2台となる。最終的に南極点を目指したのはロバート・スコット以下5名で、ようやく南極点に到達した時には、ロアール・アムンセン隊に約1ヶ月も先を越されていた。失望に覆われたロバート・スコット隊はその帰路、3月29日までに飢餓と極寒の中で全滅した。2月16日には、最初の死亡者が出る。3月17日、足に重度の凍傷を負った1名がテントから出て行方不明となる。3月21日、食料を置いたデポまで後約20kmのところで猛吹雪に見舞われ、テントでの一時待機を余儀なくされる。吹雪は絶え間なく吹き荒れ、テントに閉じ込められたが、ロバート・スコット隊の残り3名の持っていた食料は、たったの2日分だけであった。そして、3月29日付でロバート・スコットは日記に「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」と書残し、寝袋に入ったまま、残りの3名全員はテント内で息を引取った。捜索隊により3名の遺体が発見されたのは、次の夏を迎えた約6ヶ月後のことであった。テント内では、遺品の他、死の直前まで書かれた日記・地質標本等も遺されていた。特筆すべきは、南極点でロアール・アムンセン隊から委託されていた手紙である。ロアール・アムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者に自分達の初到達証明書として持帰ることを依頼し、書かれたものであった。ロバート・スコット隊が所持していたことにより、ロアール・アムンセン隊の南極点先達は証明され、また「自らの敗北証明を持帰ろうとした」として、ロバート・スコット隊の名声を高めた。ロバート・スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行なっている。第一の要因として、ロアール・アムンセン隊は犬ゾリとスキーによる移動で極点に到達したが、ロバート・スコット隊は当初使用した雪上車や、主力とした馬による曳行が悉く失敗し、人力でソリを引かざるを得ず、いたずらに体力の消耗を招いたことが挙げられる。また、ロアール・アムンセン隊では、現地に棲息する海獣を狩る等して携行食糧を少なめに抑え、足りなかった場合は犬ぞりの犬も食用としている。一方のロバート・スコット隊は、全ての食料を持運んだ。特に、馬のための干草類は、現地では全く入手できるものではない上、馬の体力消耗で思いの他早く尽きてしまった。さらに、ロアール・アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、ロバート・スコットは地質調査等の学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。何よりも、ロバート・スコットとロアール・アムンセンは南極探検の動機が全く異なっていた。ロアール・アムンセンは子どもの頃から純粋に極地探検を人生の目標としており、南極探検はあくまでもロアール・アムンセンの個人的な動機によるもので、探検の途中で重大な危機に遭遇した場合には、ロアール・アムンセン自身の判断で引返せる余地もあった。これに対し、ロバート・スコットは大英帝国の威信を掛けた国家事業の代表者として選ばれ、国家の期待を一身に背負って南極探検に臨んでいた。そのため、失敗しても失うのは極地探検家の面目だけの気楽なロアール・アムンセンと違い、初期の段階で雪上車の故障や馬の全滅といった想定外の危機に見舞われても、ロバート・スコットは国家の期待に背いて引返すことを潔しとせず、職業軍人としてのプライドもあって、そのまま死へと向かって前進を続ける以外に選択肢がなかったとも言える。アメリカ合衆国が1956(昭和31)年11月、1957(昭和32)年7月1日から1958(昭和33)年12月31日まで続いた国際科学研究プロジェクト、国際地球観測年(IGY)を記念するために、南極点付近に建設した観測基地、アムンゼン・スコット基地の名は、南極点初到達を争ったノルウェーのロアール・アムンセンと、イギリスのロバート・スコットの2人に敬意を表して名付けられた。アムンゼン・スコット基地は、厚さ約2,800mの氷の上に乗っており、毎年少しずつ南極点に近付いていると言われ、現在の南極点までの距離は約100m以内である。アムンゼン・スコット基地は以前、ドーム型であったが、建設から30年以上経過したことで手狭になり、増加する基地人口に対応させるため、さらに、雪に埋もれにくくするために新設することになり、1999(平成11)年から建設が進められ、2003(平成15)年に完成し、活動を開始している。建物は、それまで分離していた機能が1つに纏まり、室内は適温に保たれ、完全に自足でき、食堂・ランドリー・売店等も備わっており、それらのために、ジェット燃料使用の発電機3台を使用している。建物は、風上に向かって立てられており、傾斜された壁によって、風が高速で地下を潜り抜けられるようにした。これによって氷食(岩石や土砂が氷河によって削られ、侵食されること)を起こし、建物が雪に埋もれないようにしている。風洞(人工的に小規模な流れを発生させ、実際の流れ場を再現・観測する装置)実験によって、雪が2階の高さまで積もらなければ、継続して氷食が起こることが実証された。この辺りでは、雪が毎年約20cm溜まるため、必要によって建物の高さが調節できるようになっている。気温は、−13.6℃から−82.8℃まで観測された。
リフォームルネッサンスの日。 
住み慣れた家の良さはそのままに、暮らしの夢が広がるようにと、東京都新宿区西新宿に本社を置く大手不動産会社、住友不動産株式会社の関連企業で、リフォーム(建物等の改装)工事等を手掛ける住友不動産リフォーム株式会社が制定。機能性とデザインの両方を大切にしながら、リフォームを施す「リフォームルネッサンス」の提案を行なう。日付は、1月18日の「1」と「18」を、「い~家(い[1]~い[1]え[8、エイト])」と読む語呂合わせから。 
いい部屋の日。
東京都港区港南に本社を置く、アパートやマンション等の建設事業、不動産の仲介事業等を手掛ける企業、大東建託株式会社が制定。部屋探しにおいて重視するポイントは人それぞれに異なることから、新生活のための部屋探しが本格化するシーズンを前に、「いい部屋とは何か」について考える機会を作ることが目的。日付は、1月18日の「1」と「18」を、「いい部屋(い[1]い[1]へや[8])」と見立てて。1974(昭和49)年6月20日に設立された大東建託株式会社は、賃貸住宅の管理戸数では業界トップ、供給ベースでも業界第1位の大手である。主に、自社が建築した賃貸住宅の居室をアパート経営のオーナーから借上げて、入居者募集(不動産仲介)や建物管理を引受け、その物件から得られる一定収益をオーナーへ支払う「賃貸経営受託システム」(いわゆる収益保証型のサブリース)を全面に押出している。また、賃貸物件検索サイト「いい部屋ネット」を運営しているが、「いい部屋ネット」は、賃貸住宅の仲介ブランドでもあり、2004(平成16)年8月から展開している。