1月17日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

阪神・淡路大震災の日(続き)。
兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の被害は、死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名、避難者数(ピーク時)316,678名、住家全壊104,906棟、被害総額は約10兆円規模となる。1923(大正12)年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)では、木造住宅が密集する地域での火災が被害を大きくしたため、主に焼死により、日本の災害で最悪となる約10万名の死者を出し、2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、津波による水死を主に、15,000名を超える第二次世界大戦後最悪の死者を出したが、この兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では、断層沿いに被害が集中して被災地域が狭かったものの、冬季の早朝に発生したことから、自宅で就寝中の者が多かったため、圧死を主に、6,000名を超える死者を出した。甚大な被害を伴なった大震災であったが、発生時刻が冬季の早朝であったため、公共交通機関や道路の利用率が比較的少なく(山陽新幹線の下り列車は新大阪駅発6時始発)、外出者も少なかったことで、市街地・自宅外での被害が抑えられたことや、気温が日中10℃前後の低温の季節であったことから、倒壊建屋に閉じ込められた生存者の熱中症、凍傷等の衰弱要因がなく、人的被害を抑えたこと、また、多くの被災者が就寝時の被災であったことから、本震時は毛布で身体を覆うことで落下物から防護したり、救出まで包まって暖を取っていた救助者もおり、多くの市民が自宅での被災であったため、帰宅困難者等が発生しづらく、安否確認が比較的容易な状況であり、火の使用も少なかったこと、さらに、気象条件として、風が穏やかで、延焼が最小限に抑えられたことや、降水が少なかったこと等が、被害軽減の要因になったとされる。阪神高速道路3号神戸線は、兵庫県神戸市東灘区深江と兵庫県芦屋市との間で、約635mに亘り橋脚が倒壊する等し、震災の甚大な被害を象徴するものとして、世界中の新聞の一面に大きく掲載された。また、前年の1994(平成6)年に開通したばかりの阪神高速道路5号湾岸線でも、1ヶ所で落橋する被害を受けた。鉄道では、兵庫県等を走る西日本旅客鉄道(JR西日本)・阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道・神戸高速鉄道等が、震災による甚大な被害を受けた。当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。この大震災により、中国自動車道や国道43号、国道2号において、復旧のための車線規制による渋滞も発生した。特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線(第二神明道路や姫路バイパス等も通じ、大阪 - 姫路間の連絡道路となっている)は、長らくの間不通となった。このため、単に関西を通過するだけの道路交通にも深刻な影響を及ぼし、復旧までの期間には、国道9号や国道372号(両国道で、京都 - 姫路間を迂回できる)等に、長距離トラックや長距離バスが殺到した。京阪神を通らない迂回ルートの当時の貧弱さが浮き彫りとなった。大震災直後から西日本旅客鉄道(JR西日本)や私鉄等各社間で、連携して行なわれたバスや他社鉄道線による代替輸送は、不通区間の解消と共に順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消した西日本旅客鉄道(JR西日本)は、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアは西日本旅客鉄道(JR西日本)へとシフトする形となった。神戸市の収益源である神戸港も被害を受けて、多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区のポートアイランド、神戸市東灘区の六甲アイランド、兵庫県芦屋市の芦屋浜、兵庫県尼崎市の築地地区等埋立地を中心に、地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。このために、海からの支援等も難しい状態となってしまった。しかし、地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設置し、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間等の短距離の臨時航路が設けられ、代替交通機関として疎開する人や復興支援者の負担を少しでも軽減する努力が行なわれた。地震による揺れは、阪神間、及び淡路島の一部に震度7の激震が適用された他、東は小名浜(福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟市、南は鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。第二次世界大戦後に発生した地震では、1946(昭和21)年の昭和南海地震や1948(昭和23)年の福井地震を大きく上回り、当時の地震災害としては第二次世界大戦後最大規模の被害を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。日本での都市型震災としては、大都市を直撃した1944(昭和19)年の昭和東南海地震以来となる。福井地震を契機として新設された「震度7」が適用された初めての事例であり、実地検分(担当者による現地調査)によって震度7が適用された最初の事例であった。なお、2004(平成16)年の新潟県中越地震や2011(平成23)年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016(平成28)年の熊本地震における震度7の観測は、震度計によって実測されたものである。周期1秒から2秒の地震動である稍(やや)短周期地震動は、木造家屋、非木造の中低層建築物が最も揺れ易い地震動とされる。人間が住む建造物の多くはこの周期の揺れで最も被害を受け易いため、この周期の地震動が長く観測される(卓越する)と人的被害が大きくなる傾向にある。このことから、俗にキラーパルスと呼ばれる。キラーパルスを伴なった地震動は、数値上でも当時最大級のものとして記録され、10秒以上続いた地域もあった(但し、その後の地震では、兵庫県南部地震を超える地震動が観測されている)。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生した当時、首相官邸を始めとする政府、及び国の機関が、直接に被災地域の情報を収集する手段は整備されておらず、地方自治体や各省庁の地方支分部局、自衛隊の部隊等から本省等へ上げられた情報を迅速に集約する体制も、収集した情報を内閣総理大臣等へ通報する体制も整っていなかった。そのため、テレビやラジオ等の報道機関が最大の情報源となり、集約整理されていない情報を元に、各機関が行動する体制となっていた。出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で、部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLO(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握した後、大規模な災害派遣部隊が現地に展開され、救助活動を開始するまでに3日間を要した。日本が地震多発地帯であるにも係わらず、被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったこと、危機管理体制の欠如・縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた形となる。ただ、この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波や、東京消防庁の消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)と横浜市消防局の救助機動中隊(現在の特別高度救助部隊)の創設、全国の応援体制として緊急消防援助隊(消防)と広域緊急援助隊(警察)の整備に繫がる。消防組織は元々、市町村単位であり、この震災によって、消防の広域動員における指揮・通信・装備等で多くの問題が露呈し、改善が進められている。一方、1995(平成7)年3月20日の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の危機管理における機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が、震災以前と比べて格段に高まり、自衛隊が必要という世論も大きくなった。この大震災は、日本の災害対策上、重要な位置を占めている。「阪神・淡路大震災を契機とした災害医療体制のあり方に関する研究会」が発足し、全国の都道府県毎に「災害拠点病院」が設置・整備されることとなった。