1月17日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

阪神・淡路大震災の日(さらに、続き)。
地震に起因する火災(特に、もらい火)等は、多くの「火災保険」では天災として填補除外条項(保険金を支払わない場合)とされているケースが多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいないため、この大震災を機会に、「地震保険」への注目が集まるようになった(この震災で支払われた地震保険の支払額は、約783億円とされる)。また、自治体には、震災での建物の崩壊による圧死等の直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難した後の持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡等といった間接的な原因での死亡も、関連死(認定死)として認定するかを審査する委員会が置かれた。死者の80%相当、約5,000名は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死した。特に、1階で就寝中に圧死した人が多かった。2階建て木造住宅の場合、「(屋根瓦と2階の重みで)1階の柱が折れて潰れるケース」が多かったが、建物が倒壊しても2階の場合は生存のスペースが残り易く、死者は少なかった。死者の内、20代が30代よりも200名近く多く、年齢階層毎に死者数が増える東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と異なった様相を呈している。20代が多かった理由としては、大学が多い神戸市灘区等で高齢者と同様、文化住宅等木造アパートに住んでいた学生が、倒壊したアパートの下敷きになったケースが多いとみられている。超高層建築物は概ね無事であった。さらに、1978(昭和53)年6月12日の1978年宮城県沖地震の被害を踏まえて、1981(昭和56)年に改正された「建築基準法」に従って建築されたビルは被害も少なかった。老朽化したビルや1階が駐車場のビル、マンションの物件では、被害も多かったものの、幸いにも死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、隣戸に延焼することはなかった。古いビルでは、日本ではあり得ないとされていた中層階のパンケーキクラッシュ(建築物の構造崩壊形の内、「層崩壊」を指す和製英語で、倒壊した階層が平たく押潰されている様子が、パンケーキに似ていることから俗称としてこう呼ばれる)が多数起こり、低層ビルでは1階の崩壊や、今まで日本では見られなかった、建物が土台から切離されて倒壊したり等、多数の被害があった。特に、神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大であった。全体で7,000棟近い建物が焼失している。ただ、地震や空襲等による都市部での広範囲の火災や、山火事等によって、炎を伴なう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象、火災旋風は発生しなかったとされている。消火活動では、上水道が断水したため、僅かな防火貯水槽を探している内に炎が延焼して、被害が大きくなる結果となった。断水で水が出ないホースを持ったまま、炎の近くで立尽くす消防士の姿が、報道映像として残されている。また、風によって巻上げられた火の粉により、消火活動が困難になった地域もある。火の手が大きくなり過ぎて消火困難と判断した場合は、火勢に任せるまま、消防員の判断で罹災者らの安全誘導を優先する「放任火災」と呼ばれる消防活動に切替えられた。被災地近辺で放任火災活動が行なわれたのは、第二次世界大戦戦時中の明石空襲以来となった。一方、周辺住民が主体となり機械に頼らないバケツリレーによる消火(延焼防止)活動も行なわれている。阪神・淡路大震災の被災後、全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義援金・ボランティア活動の他、インフラストラクチャー(インフラと略称される、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設)の復興には、他府県の電力会社やガス会社等の多くの職員が、復興応援のために現地入りした。復興事業では、ライフライン(電気・ガス・水道等の公共公益設備や、電話やインターネット等の通信設備、圏内外に各種物品を搬出入する運送や、人の移動に用いる鉄道等の物流機関等、都市機能を維持し、人々が日常生活を送る上で必須の諸設備)の復旧が最優先とされた。電気は、殆どの地域で3日から1週間程度で復旧が可能であったが、地下に埋まっている水道・ガスの復旧に長期間を要した。また、兵庫県神戸市では、当時水道局があった神戸市役所2号館6階が7階・8階に押潰されて被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要する等、復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階から8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。復興支援物資の輸送も、全国各地において受付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して、被災地と大阪市を結んでいた。神戸近郊の道路でも、「神戸市に行く」と言えば、交通整理等で最優先に通行させてもらえる等、復興活動を支援する場面が見受けられた。建造物の本格的な復興事業が開始されたのは、翌月に入ってからである。この頃には、多くの機材・人材が全国から駆付けて、瓦礫の撤去や再建をサポートしていた。家が全・半壊した住民は、学校や公共機関の建物に避難した。被災地の学校の多くは休校する。被災者は、体育館・教室等で寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車で寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認め、食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても、食料等の配布が行なわなれるようになった。震災発生後約1ヶ月を経て、プレハブ工法(建築物の一部、又は全ての部材を予め工場で製作し、建築現場で建物として組立てる建築工法)による仮設住宅が建設されて、入居が始まった。しかし、その多くが、被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたため、避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始に合わせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や、学校等避難所から待機所への移行を促す措置が採られたり、民間の住宅を借上げて、被災した住民への提供等が行なわれた。その後、復興支援住宅(災害復興住宅)と呼ばれる高層の恒久住宅の建設が、兵庫県によって行なわれた。仮設住宅よりもプライバシーが守られる反面、近所付合いのコミュニティが形成しづらいこともあり、孤独死の問題も増えた。水道が長時間使われない場合に、自動で警告を知らせるシステム等で、孤独死を防ごうと対応している所もある。これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行なうための調査が、短期間の内に少人数によって行なわれたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。空襲で破壊された都市の復興のために策定された戦災復興都市計画による土地区画整理事業(「都市計画区域内の土地について公共施設の整備改善及び宅地の利用の増進を図るために行なわれる、土地の区画形質の変更及び公共施設の新設又は変更に関する事業」)が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって、第二次世界大戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に、特に甚大な被害が見られたため、神戸市は、戦災復興の延長線として震災復興を捉えている。単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅等、大掛かりに区画変更を行ない、緑地を多く取って緩衝地帯を設定すること、その実施に当たっては、単なる上意下達ではなく、アウトラインのみを地元に提示し、細部については、地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間の内に、一気に防災型の都市に変えること、等、1976(昭和51)年10月29日に発生した酒田大火(山形県酒田市で、中心部の商店街約22万5,000平方mが焼失した大火災)の復興事例が、短期間での都市復興の事例として参考にされた。