1月16日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3火曜日 旧暦 12月 6日、大安(己卯)、月齢  4.6  
グレゴリオ暦で年始から16日目、年末まであと350日。
誕生花 キンギョソウ・チンチョウゲ・デンドロビューム・ヒヤシンス(黄)・ラッパスイセン・木瓜・スノードロップ。

二十四節気・雑節等
雉始めて鳴く。
七十二候の1つ(69候)。

籔入り。
かつて、商家等に住込み奉公していた丁稚や女中等の奉公人が、実家へ帰ることのできた休日。1月16日と7月16日がその日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは、江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日であったとされるが、都市化の進展に伴ない、商家の習慣へと転じた。関西地方や鹿児島地方では、オヤゲンゾ(親見参)等と呼ぶところもある。また、六の付く日に行なわれることから、関西では六入りとの呼び名もある。藪入りの日が、1月16日と7月16日になったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるように、という意図であったとされる。その内に、地獄で閻魔大王が亡者を責め苛むことを止める賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行なわれ、縁日が立つようになった。藪入りの日となると、主人は奉公人達にお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに、手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには、実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物等をして休日を楽しんだ。因みに、上の者から一方的に何かを押付けられること、強要されることを、「おしきせ」と言う。意味からして、「押着せ」を思い浮かべる向きもあるが、「お仕着せ」と書くのが正しい。江戸時代、大店に奉公している者に対して店の主人は、季節に合わせて衣服を支給するのが当然のことであり、これを「お仕着せ」と称した。今でいう、従業員に制服を支給するようなもので、元々は、悪い意味で使われた言葉ではない。明治維新が起き、太陰暦(月の満ち欠けの周期を基にした暦法)を基にしつつも、閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦である太陽太陰暦(旧暦)から、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にして作られた暦(暦法)である太陽暦(新暦)への改暦が行なわれると、藪入りは正月と盆の付随行事であったため、正月の新暦移行に伴ない、そのまま新暦へと移行した。明治維新による文明開化後も、商家の労働スタイルにはそれ程の変化はなく、さらに、産業化の進展に伴なって労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となった。藪入りの日は、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区の東部)浅草等の繁華街は、奉公人達で賑わい、中でも、活動写真(映画)等はこれによって大きく発展した。活動写真は、明治・大正期における映画の呼称で、元来は幻灯機(写真を見るための光学器械、スライド映写機の古典的呼称)のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも呼ばれ、自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは、大正時代後期になってからである。活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は、荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準を持ち、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。純映画劇運動では、欧米映画を模範としつつ、女優の起用(女形の廃止)、字幕の使用(活動弁士の廃止)、自然な演技、物語内容の現代化、映画的技法の重視、演技・演出の写実化等を唱えて、歌舞伎や新派劇の影響を強く受けている従来の日本映画(活動写真)の刷新を図った。大正関東地震(関東大震災)の影響で運動は終焉したが、これにより、日本映画界で女優の起用が一般化し、演出技術も発展、「活動写真」が「映画」へと変わる大きな転機となった。第二次世界大戦後、「労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)」の強化等により労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りは廃れ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。それでも、藪入りの伝統は、正月や盆の帰省として名残を残している。藪入りの語源には諸説あり、はっきりしない。藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛等の説がある。なお、同様に大奥の女性達が実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれる。藪入りは、奉公人達にとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これに因んだ小説や俳句、落語(「藪入り、旧題お釜さま」等)等も多く残っている。古典落語(落語の演目の内、一般に、江戸時代から明治時代・大正時代にかけて作られたものを指すことが多く、それよりも新しい時代に作られた演目は、「新作落語」と呼んで区別される)演目の1つ、「お釜さま」は、典型的な艶笑噺であり、現在では、演じ手は極少とみられる。明治時代になって、初代柳家小せん(落語の実力は他の追随を許さない程優れていたが、病を患い、板付きで高座を務めるようになり、失明もするが、晩年は自宅を稽古場として、月謝をとって落語を教えており、この稽古場は「小せん学校」や「三好町通い」と称され、後に名人となった多くの落語家が、柳家小せんから直接教えを受けている)が不潔な部分を取除いて「鼠の懸賞」に直す。その後、三代三遊亭金馬(大正時代から昭和時代前期に活躍した名人の1人で、初代柳家小せんらに多く学び、読書家で博学として知られ、持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、誰にでも分かり易い落語に定評がある)がさらに手を加えて「藪入り」としている。 
初閻魔、閻魔賽日、十王詣。
1月16日と7月16日の閻魔賽日(地獄の釜の蓋が開いて、鬼も亡者も休むとされる日)に、寺院で十王図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣したりすること。十王とは、地獄にいて亡くなった人の罪を裁く10名の判官のことで、特に、閻魔王のことを指す。閻魔は、冥界(死後に行くとされている世界)の王として死者の生前の罪を裁く神で、日本仏教においては地蔵菩薩と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩は、奈良時代には経典『地蔵十輪経』によって伝来していたが、現世利益優先の当時の世相の下では普及しなかった。平安時代になって末法思想(釈尊の入滅後、年代が経つに連れて正しい教法が衰滅することを説いた、仏教における思想の1つ)が蔓延するに従い、源信(天台宗の僧で、恵心僧都と尊称される)らによって、平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には経典『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が生み出された。これにより、閻魔の本地(本来の境地やあり方)が地蔵菩薩であるとされ(ここから、一部で言われている、閻魔と地蔵とを同一の尊格と考える説が派生した)、閻魔王のみならず、十王信仰も普及するようになった。本地である地蔵菩薩は、地獄と浄土を往来できるとされる。藪入りの日に、余暇を使い閻魔堂に詣でたり、芝居等を楽しむ奉公人が多く、昔は1月16日と7月16日を「閻魔賽日」や「初閻魔」と呼んでいた。 
晴れの特異日。
晴れる確率の高い日。